渡辺仁の意欲作、「ミース」「メンデルゾーン」「バウハウス」が合体する建物!?
【ガイド】建築史家・斉藤理さん
1972年生まれ。東京大学大学院建築学専攻修了。博士(工学)。東京大学研究員のほか、慶応義塾大学などで講師を務め、2011年より山口県立大学准教授、中央大学社会科学研究所客員研究員。2004年、まち歩き企画「東京あるきテクト」開始。2007年より建物一斉公開イベント「open! architecture」の企画・監修。2010年より東京都観光まちづくりアドバイザー。著書に『東京建築ガイドマップ──明治大正昭和』(共著、エクスナレッジ、2007)など。
東急東横店東館の外観を見て、「おかしいなー」って気づくことがありませんか?
(参加者)窓が多くて出窓風?
よく見てください。宮益坂下の交差点にまっすぐ伸びる建物の角が直角ではなく、少し傾いているように見えませんか?
(参加者)なぜでしょうか?
ずっと考えていて、まだ答えには至っていませんが、僕なりのいくつか推論を立てています。この建物の特徴はデパートでありながら地下がないということ。
(参加者)川があるから?
そう、地下に渋谷川が流れていて、その影響で柱や梁がないと考えられますが、今回のツアーではもっと楽しい推測をしてみたいと思います。
(参加者)(笑)
「東横デパート(東急東横店東館)」は、1934年(昭和9年)に渡辺仁という当時の有名な建築家が建てたものです。このエリアを見てみれば、戦後に五島慶太、坂倉準三が「渋谷計画」と名付けて、東館の隣に西館や、向かいに東急文化会館を手掛けています。そういう意味で谷地である駅周辺は、建築ファンにとってはとても面白いスポットです。また「モダニズム」とか、「ル・コルビュジェ」というキーワードを手掛かりにして、外国人観光客が興味を持って訪れる場所でもあります。
(参加者)はい。
では、面白い発想とは何かといえば、この東館の建物角の「尖がり」と、高架線を走る「山手線」にポイントがあります。特に高架鉄道は未来的シンボルとして、このエリアを規定しているように感じていて。この2つの組み合わせを考えたときに、僕が辿りついたのがこのデザイン画です。
(参加者)どこですか?
ベルリンです。この建物は渡辺よりも一つ歳上の、ミース・ファン・デル・ローエというモダニズム建築家が構想したもので、むちゃくちゃ壁が傾いているのが分かりますよね。そして、その建物の下には高架鉄道が走っています。
(参加者)本当だ、似ていますね。
ミース・ファン・デル・ローエのフリードリッヒ街オフィスビル案(左)と開業当時の東館(右)外観の比較
画像:(左)Friedrichstrasse Skyscraper(1921)/Ludwig Mies van der Rohe
(右)『土木建築工事画報』第10巻 第11号 工事画報社 昭和9年11月発行より
ベルリンの高架鉄道は山手線のモデルになったと言われていて、彼が「高架鉄道」と「駅前の一等地」という組み合わせから、このミース・ファン・デル・ローエの構想に思い当たらないわけがない。そう考えるとミースがベルリンで実現できなかったアイデアを、渡辺が自分のプロジェクトとして渋谷の街で実現させよう、織り交ぜようとしたと考えるととても面白いですよね。
(参加者)なるほど!
さらに、そうした目で建物をじっくりと見てもらうと、今度は「あの階段」に何か特徴があるように思えます。どうですか?
(参加者)単なる非常階段?
見慣れて気づかないかもしれませんが、これは流線型といって「アール・デコ」の特徴的な造形です。エーリヒ・メンデルゾーンという、ミースと同じくドイツの建築家で渡辺と同じ歳。メンデルゾーンは1920年代にドイツで精力的に建築物を作っていて、ちょうどその頃、40歳だった渡辺が欧米に視察旅行に出かけています。余談ですが、彼の父親は東京帝国大学工科大学(現・東京大学大学院工学系研究科・工学部)校長で著名な一家だったのですが、東京帝国大学建築学科を卒業後に建築家になりたいと思っていたところ、父親から「建築家として独立することはならない。官僚になりなさい」と厳しく言われ、仕方なく鉄道院、後に逓信省にて建築活動に携わることになったそうです。ところが、父親が亡くなった途端に建築家として独立し、すぐに欧米に視察旅行へ。20年代のドイツ建築の息吹きのシャワーを浴びて帰国し、その数年後に東館を手掛けた。そう考えれば、彼がヨーロッパ建築の影響を受けていないわけがないだろうと。
(参加者)あの丸くなっているところが、メンデルゾーンなんですか?
現在の東館写真から丸みのある階段部分(メンデルゾーンとの類似点)
あの階段がそうです。メンデルゾーンの特徴は「角丸造形」を使う表現主義という言葉で括られますが、それだけでは根拠が足りない感じがします。そこで東口の反対、ハチ公側から東館の上の方を見上げてみると大きな袖壁が出ていて、そこには排気管などが立っているのが分かります。あの壁は一体何だろう?当時の写真を見ると山手線の高架が通っていて、ハチ公側から袖壁が順々に下がっていく。こういう段々と壁が下がっていくデザインは、メンデルゾーンの建築物にも多く見られます。ただ、現在ではその部分はデフォルメされていて、当時のような造形は残っていませんし、ネオンサインも付いていません。確かめることが出来ないのが、残念です。
現在のハチ公側から見た東館
(参加者)東横線の駅ホーム側ではどうですか?
現在潰れているのですが、昔はこんな風にちょうど電車が発着する正面にモダンな造形の階段が展開されていました。どういう風にモダンかといえば、同じく1920年代にドイツでバウハウスという建築的・デザイン的な運動が興るのですが、その芸術学校の校舎に使われた「水平連続窓」が、この東館の建物にも使われています。さらに駅ホーム側には裸の外階段が付けられている。なぜ、裸なのか?
(参加者)お金がなかった(笑)
バウハウス校舎と東館の裸階段
画像:Bauhaus building in Dessau(1925-1926)
お金がなかった?建築面積が足りなかったわけではなく、バウハウスの校舎でも階段を裸であえて見せていて、それは階段が「機能的な装置である」という考えから。薄いコンクリートスラブだけで成り立たせていて、当時はすべて構造も機能も見せるのがものすごく新しかった。彼はヨーロッパでそれをしっかりと見てきて、渋谷という土地でそれを実現させようとしたのだろう、と推論が立ちます。
ですから、東館が面白いのは、ここがミース・ファン・デル・ローエの幻の作品で、ハチ公広場側の壁にはメンデルゾーンの背景があって、東横線・旧渋谷駅側から見るとバウハウス。1920年代の建築の動向がてんこ盛りになっているという、とてもユニークで意欲的な作品であるといえます。渡辺仁さんの代表作では銀座「服部時計店(現、和光)」(1932年)が有名ですね。一見、和光はクラシックな建物だと思われていますが、細かく読み解いていくと、やはり東館と同じようにメンデルゾーン的な表現主義やモダンな要素が入っていることに気付くはずです。
(参加者)そんなに有名な建築家たちの要素が合体しているんですね、すごい。
それから、彼はあの角地にモニュメンタリティーを生み出そう、という意識がすごくあったと思う。皆さんは「有楽町マリオン(正式名称、有楽町センタービル)」(1984年)をご存知ですよね。
(参加者)はい。
日本劇場(左)と有楽町マリオン(右)
画像:竣工当時の日劇(1933)
マリオンは巨大な船のようなグルッと丸い形をしていますが、それは、もともとあの場所には渡辺仁が作った円形の「日本劇場」(1933年)があって、それをモチーフに建てられたからなんです。彼は数寄屋橋のあの角に都市的な顔として「モニュメンタリティーを生み出そう」と考え、日本劇場のデザインには、都市と建築を結び付けようとする意図がすごく感じられます。そういうモニュメンタリティーを、東館の角の「尖ったところ」や、斜めに傾いている壁から読み解くことが出来ます。特に道路を挟んだ宮益坂下あたりから、写真を撮ると少し建物を見上げるような形で、より鋭い角性が強調されます。残念なことに現在では、壁を少しふかしているため、当時ほどの鋭角さはないように感じますが…。