東急東横線・旧渋谷駅地上駅舎から代官山方面に約500m、かつて並木橋交差点付近の渋谷川右岸に「並木橋駅」があった。もし、この駅を利用したことを憶えている人がいるとすれば、おそらく70歳を優に超えているだろう。そう、並木橋駅が営業していたのは、今から68年前の戦前まで遡るのだ。再開発が進む渋谷の街はどうしても新しいものばかりに目がいきがちであるが、同時に街の歴史もしっかりと記録に残しておきたい。現在、渋谷駅を利用するほとんどの人びとが知らず、忘れられた「幻の並木橋駅」の存在を改めてクローズアップしてみよう。
多くの学生たちでにぎわった並木橋駅
「並木橋」というと、今日では八幡通りから代官山方面に抜ける大きな橋をイメージする人が多いのではないだろうか。実は、この大きな橋は「新並木橋」といい、本来の「並木橋」はその脇に架かる小さな橋のことをいう。その歴史を紐解くと、江戸時代には幕府が作った「御入用橋」として格式の高い橋に位置づけられ、当時は金王八幡宮から鎌倉街道を結ぶ「金王下橋」という名称で呼ばれていた。その後、明治時代に架け替えられ、現在の「並木橋」と改称されたそうだ。
昭和10年代、並木橋駅。奥に見えるのは東急東横店東館。
このエリアがにぎわい始めたのは、1927(昭和2)年8月28日、渋谷と神奈川間をつなぐ全長約23.9キロの新路線「東横線」の開設がきっかけ。渋谷駅と同時に、並木橋のすぐ隣に相対式2面2線の高架駅「並木橋駅」が開業した。開業当時、階段は上りホームのみに取り付けられ、構内踏切で下りホーム側に渡っていたそうだ。渋谷川の左岸には玉電の天現寺線が明治通りを走り、周辺に青山学院や実践女子学園、常盤松女学院、國學院など数多くの学校が並び、渋谷駅から連続してにぎわっていたという。通学客の利用が多く1930(昭和5)年には構内踏切を廃止し、中2階で合流するタイプの階段が両ホームに設置された。その後、同駅は1945(昭和20)年5月24、25日の空襲で全焼し、6月1日に営業休止。戦争が終わった翌年5月31日に正式に廃止が決まった。営業期間は正味18年と短命であったが、終戦から68年を経た今日まで高架橋に「並木橋駅」の痕跡を残し続けてきた。
高架線のコンクリートが一段高くなっている部分がホームの側壁と思われる。
68年前の駅跡を高架線に求めて
高架下の上部に「のりば案内」らしき表示が残っている
渋谷文化プロジェクト編集部では、東横線の高架線解体工事に伴い、もう間もなくで完全に消滅する「並木橋駅」の駅跡を求めて、並木橋交差点付近を探索してみた。並木橋から高架橋を見上げた辺りは、コンクリートがやや高く突き出していることが分かる。既に高架橋には相対2面2線のホームは残っていないが、突き出した側壁にかつてあったであろうホームの存在を感じ取る事が出来る。
並木橋から渋谷川を渡り、高架下の内側を見上げてみると、戦前にペンキで書かれていたものであろう「のりば案内」らしき文字が残っていた。おそらくホームへ上る階段付近に表示していたものだろう。高架橋の補強工事などで「の 櫻 横 多」と僅かに残る文字は、まるで暗号解読のようであるが、おそらく「のりば 櫻木町 横濱 多摩川園前 方面」と書かれていたことが容易に想像できる。既に桜木町駅は廃止、横浜駅は地下化、「多摩川園遊園地」の名前を取った多摩川園前駅も、現在では多摩川駅と名前が改められるなど、70年間の時を感じずにはいられない。
「のりば案内」が見える高架線の手前には、懐かしい木の電柱が1本立っている。そのくたびれた雰囲気から空襲にも負けずに立ち続けている電柱ではないかと思われるが、すでに本来の電柱としての役目は終えている様子。とはいえ、住所表示プレートやゴミ収集日のお知らせが掲出されるなど、現在でも地域住民のために現役を続けているようだ。戦前から今日まで、渋谷駅直近でありながら大規模開発とは無縁であった同エリアは、今なお、当時の雰囲気を残す。新並木橋交差点の頭上を走っていた東横線の高架線は既に撤去が終了しており、「幻の並木橋駅跡」の解体・撤去も時間の問題だろう。渋谷を形作った歴史の一つとして記録に残しておきたい。
今後、渋谷駅から連続する同エリアは渋谷川の清流復活と共に、「渋谷駅南街区プロジェクト」として高層複合施設(2017年度開業予定)の開発が進んでいくという。