SHIBUYA BUNKA SPECIAL

教えて!黒田先生 コンテンポラリーダンスQ&A

コンテンポラリーアートや、コンテンポラリーミュージックなど、「コンテンポラリー」という言葉が付くだけで、なぜか体が萎縮して受け入れを拒みたくなる。そう、コンテンポラリー=「難解」と感じている人がきっと多いことだろう。でも、よく考えてみて欲しい。自分がいま生きているこの時間、この瞬間、そして身の回りにあるものすべてが、実は「コンテンポラリー(=時代を共にする)」もの。もしかしたら、コンテンポラリーって、頭で思うほど難しいものではないのかも・・・。

そこで、第1ステップ『コンポラを学ぶ』では、人気と実力を誇るコンテポラリーダンス界のカリスマ・黒田育世さんの丁寧な解説のもと、Q&A形式でコンテンポラリーダンスの基本とその魅力について学んでみたい。

黒田育世さん

黒田育世さん
2002年ダンスカンパニーBATIKを設立。国内外の舞台で目覚ましい活躍をし、その身体表現において注目されているダンサー&振付家。6歳よりクラシックバレエを始め、大学時代にロンドンに留学。00年から伊藤キム+輝く未来の公演に出演。02年初の振付作品「SIDE B」にて鮮烈なデビューを飾り、瞬く間に振付家としての地位を確立。04年「SHOKU」「花は流れて時は固まる」などで第4回朝日舞台芸術賞、キリンダンスサポートをダブル受賞。06年舞踊批評家協会賞を受賞。ここ最近は、海外公演を積極的に行うほか、金森穣率いるNoism05への振付や、作家の古川日出男とのコラボレーション作品『ブ、ブルー』を発表するなど活動の幅を広げている。
»蠟染

「コンテンポラリーダンス」と「モダンダンス」は何が違うのでしょうか?私にとっては違いません。今、切実な踊りは全てコンテンポラリーダンスです。 

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国によっても違うと思いますが、日本では一般的にコンテンポラリーダンスって「モダンダンスの後に出てきたもの」といわれますよね。ただ実際には、モダンダンスも、日本舞踊も雅楽も能も、その発生時期にはコンテンポラリー(=時代を共にする)ダンスだったと思います。「今、切実な踊り」は全部私にとってコンテンポラリーダンスです。

クラシックバレエの作品を現代風にアレンジした場合、それはコンテンポラリーダンスと言ってもいいですか?バレエの技術を踏襲するなら、それはクラシックバレエ。

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バレエには「パ」と呼ばれる身体技術が求められます。例えば、足を伸ばしたまま勢いよく高く上げるとか、屈伸運動とか、それらの技術をすべて踏襲して、一番美しいラインを目指しながら作品性・ストーリーを見せていくというのがバレエの基本的なとらえ方なので、それを踏んでいる限りはクラシックバレエですね。あとは、振付家の意向次第という側面もあります。振付家がバレエの「パ」をコンテンポラリーな表現だとおっしゃれば、きっとそういうふうに表記してもいいのではないでしょうか。

ダンサーはどこかの学校で基本テクニックを学ぶのですか?日本にはコンテンポラリーダンスの学校がありません。

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ヨーロッパやアメリカなど海外の大抵のダンス学校では、モダンダンス/コンテンポラリーダンスのクラスで「リリーステクニック」「グラハムテクニック」「ホートンテクニック」等の様々な技術を教えてもらいます。ただ、日本にはオープンスタジオやプライベートなスタジオはあっても、コンテンポラリーダンスを専門で教える学校がありません。代わりに、オリジナルのメソッドを創っている人がたくさんいらっしゃいます。決まったテクニックを学ばなくても、プロのダンサーとしてやってらっしゃる方は案外多いですよ。

「踊る」こと以外で、ダンサーに必要なものって何ですか?どう生きるかということ。

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ダンスは技術の高さだけを競うものではありません。技術は確固としてあった上で、なおかつ「その先の何か」を舞台の上で実現するには、「どれだけ真摯に生きているか」ということが重要ではないでしょうか。私が日常生活で心掛けているのは、「ありがとう」と「ごめんなさい」。お母さんとかおばあちゃんに教わった、一番初歩的なことです。私の場合はそうですが、「勇気が必要」とか「めげない」とか、人によっていろいろあると思います。

黒田さんのダンスは激しいイメージがありますが、今までに倒れたことは?カーテンコールの後に過呼吸で倒れたことが何度か・・・。

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過呼吸のほか、踊りすぎて毛細血管が切れ、遠心力で血が流れすぎてひじから下とひざから下が真っ黒になったこともあります。危ないので、公演前に試しに激しく踊り続けてみたことがあるんです。40分までは大丈夫だったんですけど、1時間を超えると、そういう現象が起きることが解りました(笑)。

劇場とかステージ以外でも、コンテンポラリーダンスを踊ることはあるんですか?廃墟のデパート、商店街など、いろんなところで踊ります。

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ライブハウス、廃虚のデパート、お稲荷さんやストリートでも踊ります。そういう場所って、劇場のように舞台空間と客席空間を隔てる両サイドの柱がないので、お客さんと踊る側との空間を隔てるものがないんです。お客さんとの感覚が近いし、あとは、場所に踊らせて頂くという気持ちが出てきますよね。例えば、商店街で踊る場合、何十年も前からその場所でお店をやっていらっしゃるところには失礼なわけですよね。私はそこにお邪魔して踊るわけなので、その場所では謙虚にやらせていただくという気持ちがすごく大切ですね。場所との出合いを大事にすることが、劇場から出て踊ることの一番大切なことかもしれないです。

コンテンポラリーダンスをどう観たら楽しめますか?または、どう観てもらいたいですか?自分の経験とのリンクを探して、楽に観てもらいたい。

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コンテンポラリーダンスというと、ダンスの技術や方法論などへの批判性、実験性を持って業界の人たちが難しくやっているように見えがちですが、そういうことだけではありません。例えばある日書いた日記の1ページと、あるシーンが何となくリンクしてしまうとか、コンテンポラリーダンスにもそういう自分の経験となぜかリンクしてしまうことがあります。いい作品には、必ずあります。だから見方というのは一切必要ない。どこかにヒットしたり、フィットすれば、それでいい。もしリンクしなければ、次に期待していただいて、ということになりますが(笑)。

黒田育世さんインタビュー
「ダンストリエンナーレ トーキョー 2009」へ向けて

2002年、「Side B」で振付家として見事なデビューを飾って以来、国内外の舞台で目覚ましい活躍を続け、ダンサーとして、振付家として、その才能を遺憾なく発揮する黒田育世さん。「ダンストリエンナーレ トーキョー 2009」の開幕を控え、連日続く激しい稽古の合間に今回の公演作品「矢印と鎖」についてお話しを聞きました。「黒田ファンを裏切りたい!」――決して現状に満足することなく、ダンスを超えたダンスを追い求める、黒田さんの新しいチャレンジとは・・・。

ダンストリエンナーレ トーキョー 2009 黒田さん関連情報『矢印と鎖』
場所=青山円形劇場 日時=9月30日(水)〜10月2日(金)各19:00開演
『ダンス・ショウケース』(BATIK)
場所=ショウケース(スパイラル1階入口) 日時=9月24日(木)14:00〜/16:00〜/18:00〜
『トーク・イベント』
場所=青山ブックセンター 日時=9月20日(日)13:00〜15:00  ゲスト=黒田育世×古川日出男(作家)

青山円形劇場は、常に私に機会を与えてくれる、ありがたい場所

--ダンストリエンナーレは今回4回目を迎えますが、黒田さんの参加は何度目ですか?

公演を控えた練習風景

2002年、第1回ダンスビエンナーレ(2002年)で、私が初めて振付けを手掛けた作品『SIDE B』を公演したんです。ですから、トリエンナーレになってからは初めてですが、ビエンナーレから含めれば2回目になりますね。実は円形劇場は、次に進まなきゃいけないというタイミングで常に機会を与えてくれる、私にとって非常にありがたい劇場なんです。今回もまさしく、次へと駆り立てられているときにお話をいただきました。今までの私とは違う作品をお見せして、皆さんがどう反応してくださるか、すごく楽しみです。

--今回の作品『矢印と鎖』についてお聞かせください。

『矢印と鎖』はドキュメンタリーを舞台にした作品です。どなたでも生まれたときから、それぞれのヒストリーを持っていると思うんですが、それが舞台上で表現されるときに個人に閉塞しがちなドキュメンタリーをどれだけ開放できるかということが大切です。私を含めて5人が踊りますが、私はちょっとブラックボックスみたいな位置です。映像では主に4人に家族のことや誕生日の思い出や夢を話してもらっています。悲しかったり、嬉しかったりというそれぞれのドキュメンタリーを、寄り添わせたり、見つめ合わせたり、抱き合わせたり、ぐちゃぐちゃにしたり、取り換えっこしたりする。そうしているうちに「このドキュメンタリーは誰のだろう?」というように、そのエピソードが誰のものだったのかが特に重要でなくなってくるんですよね。そして、みんなの涙が反射して溶け合っていくような感覚に襲われる…、そんな構成になっています。この「涙が溶け合っている」ことが一番重要なことで、涙が溶け合った場所、溶け合った体を、舞台上にポンと置ければ、例えばカットされたガラスや宝石がいろんな面を持つように、どの方も自分の何かを投影して見られて、中に溶け入っていけるようになれるんじゃないかなと思っていて。誰もが自然に自分を投影できる場所、皆さんが踏み込めるような、体が一つの場所になってしまえばいいな、と思っています。

「ダンスがすべてじゃない」最終的にダンス作品としての成功を一切目指さない、だから自由

--ダンスとテキストと映像を組み合わせる作業に違和感はありませんでしたか?

意見を交換しながら詳細を煮詰めていく

ダンスを最終的な目標としない作品だったので、言葉があっても、映像があっても自分にとって自然で、違和感は特になかったです。もちろん怖い気持ちはあるけど、怖がるのをやめようとしていました。「ダンスがすべてじゃない」ということを言葉で自分に言えるようになった。別に人にわざわざ言わないですけど、自分にきちんと言えるようになったっていうことが理由かもしれないですね。最終的にダンス作品としての成功を一切目指さない。だから自由なんです。

--黒田さんの新境地、ということでしょうか?

今までと全く違う作品といいましたが、実は前作『ペンダントイヴ』のときもそういう気持ちがあったんです。ただ、それってわたしの誤解らしいんですよね、いつも。そういうふうに受け取られないというか、テーマはその時々で毎回いろいろあるんですが…、基本的にやりすぎるんでしょうね。例えば、私は作品をつくるとき「女性性」を意識したことってほとんどないんです。でもやりすぎると、何かかたちが壊れるじゃないですか。壊れたものを見て、何とかそれを言葉で名前を付けようとしたときに、どなたかが「女性性」と言われたりとか「激しさ」と言われたり。私が根底でやっていることは、本人にとっては、ずっと変わらないような気がします。「ありがとう」と「ごめんなさい」、「人には優しく接したい」とか「愛情」とか、そういうお母さんやお父さん、おばあちゃんなりに言われているようなごくごく自然なことをずっと根底でやっているんだと思うんです。それは作品を創り始めた22、23歳のときから変わってないです。毎回それをやりすぎるんですが、そのやりすぎ方がちょっと今回は違うかもしれないですね。いや、また同じでしょうか(笑)。わたしの誤解で終わるのかもしれないですね。みんな、そうは思わないっていうことで終わるのかもしれないです。

--最後に、この『矢印と鎖』をお客さんにどう観てもらいたいですか?

お客さんに「ダンスじゃないな」って思われたとしても、「ダンスだな」と思われたとしても構いません。『矢印と鎖』には、もちろん踊るシーンもあります。そこで適当な踊りは一切できませんし、すごく大切に踊らなければいけない。ただ、最終的にお客さんに作品自体がダンスに見えたかどうかっていうことを委ねてもいいような、そんな大らかな心持ちが私の中にあります。ダンス作品に見られなければいけないという境地ではない。ただ愛情にあふれる作品だと個人的には思うので、観ていただいて、もしちょっとでも優しい気持ちになられたら、家に帰ってご家族に優しくしてください(笑)。

音楽に合わせ、手足を激しく動かす出演者たち


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