History

「渋谷文化」の原点がここから生まれた。

「渋谷文化」の原点がここから生まれた。

1954(昭和29)年に開業した「東急会館(東急百貨店東横店西館)」は、戦前に4階まで建てられた「玉電ビル」を11階建てに増築。当時の建築基準法では高さ制限が31mだったが、特例許可で軒高43m(時計台まで入れて60mに達する)の日本一の高さを誇る高層ビルが誕生する。9~11階フロアには、渋谷初の大劇場「東横ホール(1967年から「東横劇場」と名称変更)」が新設。歌舞伎から落語、新派劇のほか、エルビス・コステロやロス・ロボスのコンサートまで、ジャンルを問わない“万能劇場”として知られ、日本橋の三越劇場と並び人気を集めた。

戦後、渋谷駅前に高い建物がない中、11階建ての東急会館(現、西館)が建つ。 画像提供=東急
東横ホール全景 画像提供=東急

中でも評判だったのは「歌舞伎」と「落語」である。1955(昭和30)年、若手歌舞伎による菊五郎劇団が東横ホールで旗揚げされ、若い歌舞伎ファン獲得に貢献。以来、「渋谷といえば歌舞伎」というイメージが根付き、現在のコクーン歌舞伎へとつながっている。また、翌年1956(昭和31)年から始まった「東横落語会」も、その時代の名人と言われた柳家小さん、古今亭志ん生、桂三木助、桂文楽、三遊亭円生の5人がレギュラー噺家として高座に上がり、チケット入手が困難なほどの人気を博したという。その後、「渋谷の名物」として定着した落語会は、2カ月に1回の頻度で催され、ホールが閉館する1985(昭和60)年まで294回にわたって続く。今日のBunkamuraや東急シアターオーブに継承される演劇やコンサート、アートなどの「渋谷文化」の原点が、まさにここから生まれたといえるだろう。

ステージから客席を臨む。座席総数1002人、客席面積680.0平方メートル 画像提供=東急
赤い床と青い客席のコントラストが特徴の「東横ホール」。右が舞台、客席は前席が9階、後方にゆくに従って傾斜し後尾席は10階に相当する。11階は機械室、照明室、控室などで、その上は屋上となっている。 画像提供=東急
東横ホールの階下は「百貨店大食堂」(8階) 画像提供=東急
お好み食堂(8階) 画像提供=東急

2人の「ノグチ」がデザインした緞帳

東横ホールには緞帳(どんちょう)が2つあった。一つは太閤秀吉が醍醐の花見に用いたという幔幕を主題に染織工芸家・野口真造(1892-1975)が製作したもの。もう一方が、彫刻家イサム・ノグチ(1904-1988)が手掛けた“No end”(無窮)である。おそらくは、歌舞伎や落語などの公演では真造の緞帳が、現代劇やライブコンサートなどではイサムの緞帳が使われていたのだろう。奇遇にも2人ともに「ノグチ」姓であるが、特に親族だったわけではないようだ。

太閤秀吉が醍醐の花見に用いたという幔幕を主題に野口真造が制作した緞帳 画像提供=東急
イサム・ノグチがデザインした緞帳“No end”「無窮」 画像提供=東急

さて、イサムに緞帳のテキスタルデザインを依頼したのは、京都に本社を構える「川島織物(川島織物セルコン)」である。仕事を受けたイサムは、千代紙をちぎった柔らかなデザイン画を計6点提案したという。そのうちの一つが、実際に東横ホールに採用された“No end”(無窮)と命名された作品だ。サイズは幅15.2×高6.4mだった。開業から30年間使われてきた緞帳であるが、1985(昭和60)年のホール閉館後、その所在は明らかとなっていない。どこか倉庫に人知れずに保管されているのだろうか。そうであれば良いが、劇場解体時に廃材に紛れて処分されてしまったのであれば、非常に残念だ。ちなみに建築家ル・コルビュジエがデザインした東急文化会館の映画館「パンテオン」を飾った大緞帳も、同じく川島織物が手掛けているが、こちらは今、渋谷を離れて京都にある同社倉庫内で大切に保管されている。過去には所在不明の大作が見つかった例もある。東横店西館に隣接する、京王井の頭線との連絡通路内に展示されている岡本太郎の巨大壁画「明日の神話」がそれだ。60年代後半にメキシコのホテルのために制作された同作は、長らく行方不明となっていたが、2003(平成15)年にメキシコの資材置き場で偶然発見されている。イサムの緞帳もいつの日か、ひょっこりと出てくるのではないか。そんな期待をつい抱いてしまう。そんな謎に包まれたミステリアスなところが、”No end”の物語にはふさわしいのかもしれない。