Architecture
戦後、多くの駅施設を手掛け、今日の渋谷の姿を設計した建築家・坂倉準三。再開発に伴い、それら全てが姿を消そうとしている今、未来を見据えた坂倉の仕事を改めて振り返ってみよう。
渋谷駅と言って、私たちがイメージするのは、東急百貨店東横店東館・西館・南館のファサードである。駅舎そのものの実態は乏しく、東横店に内包される形で渋谷ターミナルが存在すると言っても過言ではない。1934(昭和9)年の「東横百貨店(東横店東館)」開業から、20年後の1954(昭和29)年に東京急行電鉄会長の五島慶太から指名を受け、建築家・坂倉準三が4階建ての「玉電ビル」を11階建ての「東急会館(東横店西館)」に増築する。東京帝国大学卒業後にフランスに渡った坂倉は1931(昭和6)年、ル・コルビュジエの建築設計事務所に入所。1937(昭和12)年にはパリ万国博覧会で設計した日本館が建築部門のグランプリを受賞し、一気に世界デビューを果たす。そんな名声を得た坂倉に、五島は渋谷駅の大改造を依頼する。
坂倉が起案した「渋谷総合計画」(1952年)に基づき、一番初めに完成したのが「東急会館」である。地下鉄銀座線、玉電ホーム上に百貨店の売り場、大食堂、東横ホールなどの商業施設を持つ。さらに国鉄の線路上を跨線廊でまたぎ、東横線と直結する「東横百貨店」ともつながる。大阪・阪急百貨店を範とする、「ターミナルデパート」を拠点とする渋谷駅の巨大化・増殖がここから始まる。
1956(昭和31)年には、地上8階建ての複合施設「東急文化会館」が竣工。最先端の音響設備を備え、今日のシネマコンプレックスの先駆けといえる大小4つの映画館や美容室、洋裁学校、結婚式場のほか、屋上階には日本初のフラー・ドームを採用した「五島プラネタリウム」を擁し、戦後復興を象徴する「文化の殿堂」として注目を浴びる。
さらに1960(昭和35)年には、京王帝都電鉄・渋谷駅も設計。東館と東急文化会館をつなぐ「跨道橋」を明治通り上に架けたのと同じく、京王帝都電鉄・渋谷駅と東急会館の間にも「京王連絡橋」を設け、歩行者移動の利便性を高めた。
坂倉は1969(昭和44)年に亡くなるが、最期に関わった仕事は、幅の異なる縦長スリットが並ぶファサードを持つ「国鉄渋谷駅西口ビル(東横店南館)」である。54年から70年まで、坂倉が手掛けた渋谷の建築群がこれで完結する。
だが、坂倉は戦後まもなく、東京の将来の見通しが効かない中で構想した「渋谷総合計画」に満足していなかった。新宿や池袋など副都心の再開発が急速に進む中で、渋谷の再々開発計画の必要性を強く実感。そこで五輪後、渋谷再開発促進協議会の依頼で、坂倉らを中心とした研究グループが「渋谷再開発計画‘66」を練り上げている。たとえば、自動車中心のまちから歩行者を中心にしたまちへの移行を目指し、渋谷駅の建物それぞれに「空中歩廊」を設け、歩行者ネットワークの形成を提唱。さらに地下街から地上、空中歩廊まで垂直につなぐ「円筒型シャフト」を街中に林立し、渋谷のまち並みのシンボルにしていくなど、今日の渋谷駅周辺の再開発事業のキーとなっている縦動線「アーバン・コア」に通じる案も検討している。この計画は実現こそしなかったが、そこに提案されているアイデアの数々は見るべきものが多く、その先見性の高さを証明している。
再開発事業に伴い、慣れ親しんだ渋谷駅の建築群が次々に消えていくことを寂しく感じる人も多いと思うが、半世紀前に坂倉が思い描いた世界は、未来の渋谷にも強く影響を与え続けていくことになりそうだ。