文化の爛熟期を迎えた19世紀末のウィーンで、裸婦を描いて「エロス」を表現し、絵画の世界に新たな潮流をもたらした天才画家グスタフ・クリムト。しかし時代を先駆けたがゆえにその作品はスキャンダルを巻き起こし、クリムトは内面の葛藤に激しく悩み苦しむ——。クリムトの精神世界の内奥を幻想的な映像とともに描き上げた映画「クリムト」を、ドラァグクイーンとして、また美術家や非建築家として活動するヴィヴィアン佐藤さんが鑑賞しました。
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--映画を観た感想は?
人物を描いた映画には、伝記的に生涯を追ったり、代表作を生み出すまでのエピソードにスポットを当てたりする映画が多いですよね。でも、この作品は、19世紀末のウィーンという都市が抱える問題とともに、クリムトの精神世界を深く描き出している。しかも、くどくどとストーリーで説明するのではなく、観ているうちに夢と現実の境界が分からなくなるような不思議な展開だったから、余計にクリムトの内面の混乱が伝わってきましたね。この映画は筋を追うのではなく、クリムトと一緒に混乱しながら観るのが正解かもしれない。私はよく映画を敢えて“誤読”するようにしているのね。監督や役者が意図していないだろうところまで読み取って、自分勝手な解釈をする。たとえば恋愛って相手を通して、自分を見つめ直すという側面があるじゃない。映画も同じで、作品を通してあれこれと自分について考えることが私の楽しみ方なの。その意味では、クリムトの精神世界を描くことに徹し、ストーリーによって明解な答えを与えないこの映画は、深く考えるのにはぴったりでしたね。
--映画を観ながら、どんなことを考えました?
これも“誤読”かもしれませんが(笑)、クリムトはたくさんの女性を愛し、30人もの子どもがいたにも関わらず、ある意味、すごく個人主義なんですよね。すごく愛情に満ちあふれた人なのだけど、その内面では孤独に葛藤し続けている。その姿を見て、最近、父親になっても家族とは一線を置き、自分の世界を保ち続ける人が増えていることを思い出しました。家族に心身を捧げるのも良いのですが、一方ではそういう生き方もあるのだなぁ、と。そんなことを考えましたね。あと、劇中でクリムトと建築家のアドルフ・ロースが喧嘩をしていましたよね。装飾を重んじるクリムトと、シンプルさを重視し、「装飾は犯罪」とまで言い切ったロースが対立するのは当然ですが、意外にも二人は「自分と向き合う」という同じことを突き詰めていたのではないか。その関係は、やはり1920年代にニューヨークで対立した画家のサルバドール・ダリと、建築家のル・コルビュジエの二人を想起させました。この二人も一見、装飾と機能という相反するテーマを追い求めているようで、じつは根本は通じていたと思うのです。
--建築に興味を持ち始めたのは、いつ頃ですか。
高校時代に澁澤龍彦や寺山修司に感化され、アートの世界にも興味を持ち始めました。自分でも絵を描いたりしていたのだけど、そのうちに絵画も彫刻も本来は建築の一部で、そこから剥がされて美術館に飾られるようになったことを知ったの。それなら建築を勉強するのが最も近道だなと思い、高校卒業後に少しだけ出版社に勤めた後、大学の建築科に進みました。そして一般の建築学を学ぶ学生に囲まれて、私は“誰も住めない建物”とか、“便器に色を塗っただけの作品”とかを作っていた。教授も評価するのに困っていましたよ(笑)。その後は大学院に進み、卒業後は磯崎新さんのアトリエに2年間ほど勤め、そこでも「非建築」を追及したのです。
--「非建築」について教えてもらえますか。
建物と建築を分けて捉えるのが非建築の出発点です。そして、建物という形式を取らなくても、建築は表現できるのではないかと考えたわけです。たとえば、建物を造るときには平面図や立面図、パース、模型など、さまざまな図面や模型を作るでしょ。そして最終的に建物が完成するのだけど、順番から言うと、建物は図面や模型のコピーなのではないか。そう考えると、オリジナルの建築がどこにあるのか、だんだん分からなくなってきませんか。そういう考え方をベースに、建物よりも意味的な強度の強い建築を表現しようというのが非建築の取り組みです。その手法は絵画でも彫刻でも文章でも何でもいい。自由な発想で、頭の上にも指と指の間にも建築は表現できる。実際、私はカツラのデザインもしていて、それを「頭上建築」と名付けて個展を開いたこともあります。こう説明すると、とても異端に思われるかもしれないけど、非建築の考え方は歴史的に見ると決してマイナーではありませんよ。
--ドラァグクイーンとしての活動を始めた時期は?
大学生の頃には派手な化粧やドレスをまとって、今で言うドラァグクイーンと呼ばれるようなことをしていました。でも、そもそも「ドラァグクイーンになりたい」という考えはまったくなく、自分の好きなことをしていたら自然にそう呼ばれるようになった感じかな。たまに若い人から「どうすればなれるのですか」「女でもなれるのですか」といった質問を受けるけど、別に検定試験もないしねぇ(笑)。私にとって化粧は生活の一部なのね。なくても死なないけど、ないと落ち着かない。歯磨きとかと一緒で、シェークスピアの作品に「することがないから女装をする」という台詞があるけど、それに近い気持ちかもしれませんね。
--ドラァグクイーンの活動とは、どんなものですか?
ドラァグクイーンの「ドラァグ(drag)」は「引きずる」の意味で、パーティなどで極端に裾の長いドレスやスカートを床に引きずって歩くことから、そう呼ばれているのね。パーティでは料理やお酒や音楽があるだけではダメで、ホスト役がいなくてはいけない。そこでドラァグクイーンは会場のなかでも空気がよどんでいる場所に行って、人と人を結び付けたり会話を盛り上げたりする。そういうことは男でも女でもないドラァグクイーンだからできること。異物が入ると、固まっていた空気がかき回されるんです。それはパーティに限らず一般社会でも同じで、性別を超えた私たちにしかできないことがある。といっても別に大上段に構えているわけでなく、そうやって境界を超え、価値観を崩していくことが単純に好きなんですよね。
--今後は、どのような活動を展開しようと考えていますか。
これまでにはショーパブのマダムも経験したし、今は映画批評や、ドレスやカツラのデザイン、映画批評、エッセイの執筆など、とにかくいろいろなことに手を出しています。けれど、「これが本職」という思いはなく、自分の中ではすべてが繋がっているのね。ドラァグクイーンであることも一つの作品だと思っているし。今後は、それらの一つひとつを伸ばしていけたらなと思いますね。あと、非建築家ではあるけど、建築家を名乗っているからには、死ぬまでに一つは建物を造りたいかな(笑)。ちなみに、今日、かぶっているカツラは「フンコロガシ」という名前なのだけど、私はフンコロガシみたいに生きたいと思っている(笑)。どんな意味があるのか分からないけど、逆さになってフンを転がし続けて一生を終える。そういう生き方も良いんじゃないか、最近はそう思っていますね。
1862−1918年。1888年、ブルク劇場に施した壁画の装飾が認められ、26歳にして皇帝より最高の表彰である黄金功労十字勲章として王冠を授与されるなど、オーストリアのウィーンを代表する天才画家。1897年、旧来の芸術に反対する分離派を結成。その後、裸体を大胆に描いた作品「哲学」等を発表し、当時のウィーン美術界の一大スキャンダルとして物議を巻き起こした。女性の裸体、妊婦、性描写など、官能的なテーマを描くクリムトの作品は、「エロス」と同時に「タナトス(死)」を感じさせるものが多い。主な代表作は「パラス・アテナ」「ユディト I」「接吻」「ダナエ」ほか。先日、クリムトの代表作の1つである「アデーレ・ブロッホ・バウアー I」が絵画としては史上最高の1億3500万ドル(約155億円)で売却され、一躍話題を集めたことは記憶に新しい。
渋谷の特徴は、どんなところだと思いますか。 私がよく訪れる新宿と渋谷には全く異なる文化が根付いていますよね。それぞれの特徴は、椎名林檎と浜崎あゆみの違いに似ていると思うんです。情念や人情が渦巻く新宿は、椎名林檎に象徴される“言葉”の文化圏と言い表せる。演歌的とも言えるかもしれません。中野や吉祥寺などの中央線沿いの街にも同じ空気を感じますね。一方の渋谷は、浜崎あゆみに代表される“リズム”の文化圏と言えると思いませんか。渋谷を基点にして、六本木通りの向こうにある六本木、さらに東横線の先にある横浜にも渋谷との共通点がありますね。
今後の渋谷に望むことは?渋谷は“絵”になる街だと思うんですね。映画を撮る知り合いも、碁盤のような街並みの新宿よりも、坂があったり、突然、道が二手に分かれたりする渋谷のほうが面白い絵が撮れると話していました。でも最近は、古き良き渋谷の街並みが減っているのが寂しいな。渋谷にも大型のチェーン店が増えましたよね。そういう店に入ると大きく外すことはない代わりに、特に個性も感じない。マークシティの裏手などには古い店の集まりが残っていますよね。そういうエリアが生き残ってくれるとうれしいかな。あとパリやニューヨークを見て思うのは、街の中心に大きな美術館あること。東京は土地がないということもあると思うのだけど、アートがもっと都心にあって欲しいですね。
ヴィヴィアンさんのおすすめ作品映画批評や宣伝等の仕事も多く、週2本は試写をチェックしているというヴィヴィアン佐藤さんに、現在、様々な形でバックアップしている作品をご紹介して頂きました。
『ユモレスク〜逆さまの蝶〜』監督・猪俣ユキさんとも個人的にも仲良し。移ろいやすい少女の感性と文字体系中心の男性性との対比に注目。『ユモレスク』とはドヴォルザークのピアノ小曲。全編鼻歌の様に流れるフォークロア調の一節と、彼女を発掘した『チゴイネルワイゼン』の荒戸源次郎とジプシー的に奇妙に繋がる。太田リナちゃん主演。 >> 詳しい作品紹介はこちら |
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『エコール』仏映画鬼才ギャスパー・ノエの奥様でもあり、今後注目の女流監督。判りやすいストーリー筋ではなく一瞬一瞬の煌めきや不安が美しい作品。映画の中の少女達が過ごす教室の片隅や森の暗闇と彼女達の学校を成り立たせる社会や卒業後の世の中の対比は、映画館の中の秘密の出来事と渋谷の喧噪の対比に哀しくも重なる。 >> 詳しい作品紹介はこちら |
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『リトルブリテン』英国のBBCで大人気のブラックコメディな番組がついに日本上陸!田舎町ただ一人で悩むゲイ、身障者の親子、勘違い女装、ダイエット教室の先生、生徒の邪魔しかしない先生、言い訳しか言わない女子高生、首相に恋いこがれるゲイの秘書、、、などマイノリティ的な人たちで構成されているのが「大英帝国」だと気付かされる。 >> 番組紹介ページはこちら |
■プロフィール
ヴィヴィアン佐藤さん
金沢工業大学建築学科大学院卒業後、磯崎新氏のアトリエを経て、アーティストとしての活動を開始。華やかな衣装やカツラをまとってクラブやパーティに出没するかたわら、舞台美術やイラスト、エッセイ、映画批評、またカツラや服飾、インテリアのデザインなど、領域を横断して活躍する。
http://www.geocities.com/vivi-s/