当ウェブサイトのご意見番であるヴィヴィアン佐藤さんは、ドラァグクイーンのかたわら、エッセイ、映画批評、服飾やインテリアのデザインなど様々な領域を横断するマルチアーティスト。そんなヴィヴィアンさん、実は高校時代からアングラ演劇に目覚め、その後、暗黒舞踏やコンテンポラリーダンスの世界にハマっていたという。そこで、第2ステップ『コンポラを観る』では、ヴィヴィアンさんの青春時代を振り返りながら、鑑賞者の立場からコンポラの舞台に魅了される理由について聞いてみた。
ヴィヴィアン佐藤さん
金沢工業大学建築学科大学院卒業後、磯崎新氏のアトリエを経て、アーティストとしての活動を開始。華やかな衣装やカツラをまとってクラブやパーティに出没するかたわら、舞台美術やイラスト、エッセイ、映画批評、またカツラや服飾、インテリアのデザインなど、領域を横断して活躍する。
»ヴィヴィアン佐藤さんブログ(渋谷文化プロジェクト内)
ヴィヴィアン佐藤さんインタビュー「ダンス観賞の魅力って?」
--ダンスや舞踏を観て楽しむようになった経緯を教えて下さい。
ダンスって、一度キッカケがあって見始めると、見ざるを得ない魅力というか、魔力があるわね(笑)。高校時代は私もサブカルキッズの例外にもれず、寺山修二、唐十郎、渋澤龍彦を随分と読んでいたわ。だけどある時唐さんが私の地元・仙台でテント公演をやって、初めて観たときに、「靴は靴袋に入れる」とか「定番曲」とか、決まり事や説明が多すぎてガッカリしたの。自由に解釈することがあんまり出来ない気がして、もう演劇は観られないなぁって。結果、もっと抽象性の高いモダンダンスであったり暗黒舞踏であったり・・・、次第にそちらへ移行していったのね。 演劇は脚本を肉体で演じるものだと思うけど、ダンスの場合は肉体が何かを表すのではなく肉体表現そのものが重要でしょう? 背景にある何かを説明するためではなく、そのもの自身に価値がある点が、特殊なアートだと思うわ。ほかにも、絵画だったら「絵の具」「キャンバス」、建築だったら「建材」のような素材が必要だけど、ダンスは唯一の素材が「肉体」なんだから、普通の芸術とは違うわね。映像で同じ舞台を観ても意味がないというか、その場に居合わせないと感じ得ないことが多くて、当時はダンスや舞踏に夢中になったわね。
--今のヴィヴィアンさんなら、コンテンポラリーダンスをどう楽しみますか?
実は私がドラァグクイーンをやるということも、「コンテンポラリーダンス」とどこか結び付いているような気がするの。多くのドラァグクイーンは、イベントが始まる直前に控え室でお化粧して、ステージでパフォーマンスして、イベントが終わると化粧を落として帰るでしょう? 「ここから始まりで、ここで終わり」という意味で、どこか演じているところがあるのよね。私はそれに抵抗があって。私は家でお化粧して、帰るまで決してお化粧を落としません。「今からヴィヴィアン佐藤になる」のではなくて、ヴィヴィアンのままレストランで食事したり、コンビニに行ったり、銀行へ行ったりしながら、「ここから始まりで、ここで終わる」という演劇的な空間を、日常のなかで曖昧にしたいの。コンテンポラリーダンスは、日常の仕草を取り入れたり、あえてユニクロのようなリアルクローズを着たりして、舞台と観客、舞台と日常に隔たりが少ない気がする。やっぱり「現在進行形」ということなのかしら。作り手はいま生きているし、観ている人もいま生きているという「現代性」がとても重要。わざとらしさを感じないのが、コンテンポラリーダンスの良いところかな。
--「ダンストリエンナーレ トーキョー 2009」、ヴィヴィアンさんの注目ポイントは?
「ダンストリエンナーレ トーキョー 2009」は、3年に一度のダンスのお祭り。3年分の良いところが一挙に観られて、とてもお得よね。同時代性、現代性、いま生きているという共通の条件のもとに様々なスタイルの作品があって面白いわ。比べてみると、小道具には衣装、テーブル、冷蔵庫など日常的なモノを使っていても、作品それぞれに流れる「時間」の感覚は全く違うわね。一瞬のインスピレーションを捉えた時間、現実の裂け目にハマって宙に浮いた時間、永遠と続く時間…。時間の密度の捉え方がダンサーによって様々で、作品の中でもどんどん変化していく。そこにぜひ注目して欲しい。
1ヶ月間に渡り、渋谷−青山がダンス一色に変わるので、いくつか作品を見比べて、様々な時間の流れを感じてみてはどうかしら?
ドラァグクイーン・ヴィヴィアン佐藤が独断と偏見で選ぶ
「ダンストリエンナーレ トーキョー 2009」のオススメ3公演
後半ではヴィヴィアン佐藤さんに、ダンストリエンナーレで披露される全18作品の中から「ヴィヴィはこれが観てみたい!」という3作品をピックアップしてもらった。ヴィヴィアンさんの独断と偏見が明らかにする、ダンスの知識がなくても楽しめる見どころとは?
ヴィヴィはコレ観たい「反復するスティーヴ・ライヒのケチャに注目しなさい!」
『La Vie qui bat(躍動する生命)』
- タイトル
- 『La Vie qui bat(躍動する生命)』(1999/2009改訂版初演)
- 施 設 名
- 青山劇場
- 開催期間
- 10月5日(月)19:00開演
- 振 付
- ジネット・ローラン
- 音 楽
- スティーブ・ライヒ(「ドラミング」)
- 詳 細
- 青山劇場内
作品概要
ジネット・ローラン、スティーブ・ライヒ、そして日本を拠点とするパーカッショニストによるコラボレーション。1999年初演後、瞬く間に話題を巻き起こした作品、待望の日本上陸。
ミニマルミュージックの大御所スティーヴ・ライヒのケチャ音楽『DRUMMING』から着想し、それに振りを付けたもの。ごく小さなリズムや旋律のパターンを連続して繰り返し、少しずつ位相をずらして行くという作風。単純な音の波長がお互いに影響して行き「モワレ効果」の様に全体として無限に変化して行く。その音と踊りから生まれる空間/時間を見て欲しいわ。ガムランなどパーカッションは大勢による演奏方法で、同じリズムや旋律を奏で、徐々に太い植物の束の様になっていく。その音の束とダンサーたちの群像パフォーマンスによって、宇宙的な時間が流れ出す。演奏者とパフォーマーはごく薄い皮膜によって仕切られていて、空間の輪郭がぼやけて行く演出が凄い!
「鈴木ユキオのスジ筋は見る価値あり!」
作品概要
鈴木ユキオが自身の出発点である「舞踏」「土方巽」に初めて真正面から対峙し、するどく強烈な身体への追究を具現化した問題作。今回、大胆な再構築を行い、淡々と流れる時間と鼓舞する身体がリンクする、スリルあふれるダンスを作り出す。
この奇妙な題は暗黒舞踏の創始者・土方巽の書いた著書「犬の静脈に嫉妬することから」に対抗しているとのこと。西洋的な踊りを否定して生まれた暗黒舞踏を否定することで、舞踏はその舞踏たる存在意味を保って来た。30代の鈴木さんは舞踏を否定して逸脱して行く方法と、肯定した上にさらに逸脱する方法は同じでないかという結論に至った。彼の鍛え抜かれた筋肉や血管、筋は舞踏の持っている肉体そのものの美しさ、奇妙さ、不思議さを照らし出しているわ。人間の肉体には「静脈」と「動脈」が存在。「静脈」とは身体から心臓へ送られて行く血管で、「動脈」とは心臓から送り出される血管。この作品全体を人間の身体だとすると、作品における「静脈」も「動脈」も存在している。そして、創始者の呪縛と対決する姿勢は、全ての子供が精神的な親殺しを通過して大人になることにも似ているわ。DNA受け継ぐべきか突然変異として進化すべきか、舞踏は常に前衛的ね。
「黒鳥じゃなくって、馬なのね!幼児性の中に怖さを感じるわ!」
『Black Swan』
BLACK SWAN extract from gilles jobin on Vimeo.
- タイトル
- 『Black Swan』
- 施 設 名
- 青山円形劇場
- 開催期間
- 10月6日(火)19:00開演
- 振 付
- ジル・ジョバン
- 出 演
- カンパニー・ジル・ジョバン(スイス)
- 詳 細
- 青山劇場内
作品概要
科学哲学者カール・ポパーの反証主義の命題「黒鳥」をテーマにした本作は、「何がリアリティを構成するか」を突き詰める社会的視点が、初演アヌシーでも話題となった。音楽はイギリスのノイズ/テクノシーンの旗手クリスチャン・ヴォーゲルの書き下ろし。
オーストリアの哲学者カール・ポパーの反証主義の命題「黒鳥」から作られた作品。いままで英語圏では「スワンは白い鳥」と受け入れられていたが、オーストリアで黒いスワンが発見された。その事により最初の命題が覆された。反証例が出て来ることで、それらが反証されるか反証されないか事実認定の問題。起きた原因を後知恵解釈しかできない事象を"Black Swan"と名付けている。ポパーはフロイトなど精神分析には批判的だったようだけれども、この作品は思いっきり精神分析的な表現が表に出ているわ。馬の縫いぐるみや幼児的な行動は個々の特別な事例なのか、一般的なモノなのか、考えさせられるわ。歌舞伎町にも「黒鳥の湖」というショウパブがあるわ。その「黒鳥」のイメージは「白鳥」の中に居れば異物として映るけれど、現実のなかでその存在を認めることで、異物が劣等的なもしくはマイノリティーな存在ではなく、特別は唯一無二なものにもなり得るわ。もしくは沢山の白い白鳥もどれひとつ同じものはないと言う事にも気が付くかもしれない。