地域に根ざしたアートプロジェクトの基本は『お祭り』
一過性ではなく、細々でも行事としてやり続けることが大切だ
アーティスト。1958年岐阜市生まれ。東京芸術大学大学院修了。大学在学中に第3回日本グラフィック展大賞(パルコ主催)を受賞し、ダンボール作品で注目を浴びる。以後、国内外で個展・グループ展を多数開催するほか、パブリックアート、舞台美術など、多岐にわたる分野で活動を続ける。近年は「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」での明後日新聞社文化事業部の活動や、横浜開港150周年記念テーマベント「開国博Y150」総合プロデューサーなど、各地で 一般参加者とその地域の特性を生かしたワークショップを多く行っている。
CAFE HIBINO NETWORK
1980年代初めにダンボール・ワークスで登場、その後のアート界、そしてデザイン界に多大な影響を与えてきた日比野克彦さん。日本を代表するアーティストでありながら、近年は日本各地を精力的に飛び回り、地域と密着した、様々なプロジェクトを成功させてきた。その日比野さんが、今回は渋谷を舞台に、新たな仕掛けを試みるという。これまでの取り組みから馴染み深い街への思いまで、鋭い切り口で渋谷の未来を語ってくれた。
--渋谷を訪れるようになったのはいつ頃ですか?
僕は岐阜生まれだから、渋谷に行くようになったのは東京に出てきてからです。頻繁に訪れるようになったのは、パルコが主催していた「第3回日本グラフィック展大賞」をもらった1982年頃。あの頃のちょっと前までは、若者の文化発信は新宿がベースだったよね。安保闘争とかヒッピーとか、彼らが新宿をたまり場としていた時代があってね。その次の世代が渋谷に移ってきた頃だった。ポパイやブルータスが創刊して雑誌文化が花開いた時代。かたやパルコというファッションに特化したテナントビルが出現して、若い世代を対象とした人材才能発掘が盛んに行われていた。アートとかパフォーマンスとか音楽とか、その登竜門的存在としてパルコが色々なコンペティションを行っていた。アート分野では「日本グラフィック展」というのがあって。あれを受賞したのが、渋谷との関わり合いの本格的なスタートといっていい。それまでの僕は中央線沿線に住んでいて上野にある大学に通っていたから、よく新宿を経由してあちこちへ移動していたなぁ。大学院1年の時に賞をもらって、その翌年、85年に渋谷のアトリエに引っ越した頃から、仕事が忙しくなった。パルコとは色々と関わったし、ブルータス、ポパイといった様々なメディアと仕事するようになった。やがてNHK番組の司会も始まると、「ベースも渋谷だし仕事も渋谷」という状況になって。渋谷があれば他はなくてもいいくらい(笑)、という時期がありましたよ。
--当時の渋谷はどういう街だったのですか?
「この街はどうなっていくんだろうかなあ?」という過渡期だった。もともと東急本店通りに人は集まっていて、さらに公園通りが活気づいてきてサブカルチャーが芽生えた。五島プラネタリウムがあるかと思えば、センター街あって、さらにのんべい横町があって。多様な文化の匂いを醸し出していましたね。そんな中で若者をターゲットに絞り込んだ文化発信を、渋谷という街が仕掛けている、そんな独特の空気に満ちあふれていて、「何か新しい動きが始まったんだ」と感じていました。カフェバーやディスコがいっぱいできて、僕も店の内装を手がけたりしながら、渋谷というフィールドで結構遊んでいたね。
--現在は渋谷をどのような形で利用していますか?
ずっと渋谷にアトリエを構えていて、ずいぶん長いけれど引っ越そうと思ったことはないかな。大都会の中だけれども、この渋谷三丁目周辺は金王神社や周囲の静かな環境があって、少し歩けば青山学院もあるし、すごくいい雰囲気だと思います。そして何より東急ハンズに近いこと。かなりの頻度で通っています。それから画材に関してはウエマツ画材店。このふたつが近くにあるというのが、すごく大きい。以前はアトリエの周囲にも小さな文房具屋さんとか材木屋さんがあって、明治通り沿いには段ボール屋さんもあった。この界隈で手に入れた材料から色々と作品を作ったし。交通の便もあるけれど、僕にとってはそれ以上に材料集めにとても便利な街なんです。
--次に日比野さんのキャリアについて。芸大〜アーティストと活躍する中、この仕事で生活していこうと決心したきっかけは?
高校時代から美大に行こうと思ってはいたけれど、将来的にこの業界で働く姿までは、イメージしきれていなかった。美術は経済と違って、右肩上がりの人生プランを、とはいかないからね。いつも流動性があるものだし、ずっと美術で食っていこうとは、実は今でも考えていないし。毎日スケッチを描いて、コンセプトを作って、仲間を集めて、アクションを起こして、その積み重ね。
--素材として段ボールに行き着いた、そもそもの発想点は?
そんなに人生って、劇的なエピソードでは進まなくってね(笑)。段ボールをはじめたのは大学3年の時。大学の課題を始める時、だいたいみんな画材屋さんで白い紙と絵の具と筆を買って絵を描く。スタートラインに立った時、他と条件が同じなら、結果も同じになる確率が高い。「じゃあ、スタートラインから違うものをやっても良いんじゃないか?」と思って。その時は考えが整理されていた訳じゃなく、ちょっとヘソを曲げて、段ボールに書き始めただけだったかもしれない。みんなと同じというのが嫌だったんだと思う。友達からは「日比野らしいじゃん」と言われて。「あ、そう。これ楽でいいんだけれど」なんて。白い紙に向かうとちょっと肩に力はいるんだけれど、段ボールだと気楽に何でもできる。美術の面白い点は、全員の回答が全く違うところ。でもはじめは、段ボールを使えば自分らしさが出るかどうかなんて分からなかった。