#シブラバ?渋谷で働く、遊ぶ、暮らす魅力を探る

KEYPERSON

渋谷の裏道を歩けばものづくりに必要なセンスが養われる
渋谷・原宿・青山を結ぶエリアの発信力は世界有数だ

ヒコ・みづのジュエリーカレッジ学校長水野孝彦さん

プロフィール

水野孝彦さん(ヒコ・みづのジュエリーカレッジ学校長)

1939年東京生まれ。東京都立大学理学部理論物理学科卒業後、防犯装置などを製造する電機メーカーに入社。3年後、26歳で恵比寿にある宝石研磨教室を引き継いで独立。1979年に専門学校の認可を受け、日本初のジュエリー専門学校を誕生させる。その後、ウォッチやシューズ、バッグのコースを増設し、2008年には大阪校を新設。主著に「校長の靴下はいちご柄」(幻冬舎ルネッサンス)、「ジュエリー・バイブル」「世界のジュエリーアーティスト」(美術出版社)など。

30年以上にわたり、キャットストリート沿いに校舎を構えるヒコ・みづのジュエリーカレッジ。学校長の水野孝彦さんが、ものづくりの人材を育てる場として渋谷にこだわる理由とは。渋谷とともに歩んだ半生について、じっくり語っていただきました。

大学時代は渋谷に着いたら百軒店の飲み屋に直行(笑)

--最初に渋谷との出会いについてお聞かせください。

渋谷との出会いは大学生の頃。東京都立大学に通っていたから、東横線に乗って、しょっちゅう遊びにきていました。駅に着いたら、百軒店の飲み屋に直行(笑)。恋文横丁あたりの店も訪問して、いつも朝まで飲んでいました。雑然としており、いいお店がたくさんありましたよね、あの頃は。今と比べて若者が少なかった記憶がありますが、ほとんど夜しか来なかったからかもしれません(笑)。その頃、学生の街といえば新宿でしたが、私の遊び場は完全に渋谷。単純に近かったということもありますし、どこか新宿は肌に合わなかったのでしょう。その感覚は今も変わりません。新宿の人たちには悪いのだけど、用を済ませたら、とっとと帰りたくなってしまうんですよね。

--どのような学生生活を送っていたのでしょうか。

小中学生の頃は優等生で頭でっかちでしたが、高校からサッカー部に入って生活がかなり活発になりました。勉強は文系科目が得意でしたが、どうしても文学が学問として成り立つとは思えなくて。「そんなの自分で本を読めばいいじゃないか」と、思っていたんです。そこで、それまでの自分とは無縁の学問をしようと思い、理論物理学科を選びました。結局、卒業まで、さっぱり分かりませんでしたけど(笑)。大学時代はサッカー三昧で、ほとんどサッカーをするために通っていたようなもの。ホント、我ながら、よく卒業できましたよ。

--卒業後の進路をお聞かせください。

大学時代から、大企業に入って人の下で働くのは苦手だろうな、という思いがありました。ほとんど直感的なものでしたが。当時の理論物理学科の学生は引く手あまたで、就職活動は完全に売り手市場。ゼミの教授の推薦を企業が断れば、「来年からは紹介しない」と言えてしまうほどでしたから。今では考えられませんよね。当時、我々の学科の学生にとってはオートメーションや原子力が花形で、私のゼミは10人ほどでしたが、皆、松下や原子力研究所など一流の研究所に入っていきました。私はといえば、そういう大企業に入る気がせず、どこでもいいから中小企業に入ろうと決めて、結局、実家の隣人が経営する電機会社に入社しました。1963年のことですね。南武線の宿河原という駅に今もある会社で、当時は金庫に取り付けるタイプの泥棒探知機などを製造していました。

「世の中に成り立たないことをしているのでは」という不安があった

--その後、ジュエリーの道に入るまでの経緯は?

その会社では、生産や開発、営業まで、本当にいろいろな体験をさせていただきました。とくに強烈な印象が残っているのは営業時代。重さ10キロくらいの機械を担いで全国津々浦々を歩き回った体験から、現場に行かなければ分からないことがあるのを身にしみて感じました。今でも、トラブルがあった際、電話で済ませられることでも、面倒くさがらずに足を運ぶようにしているのは、その体験が原点にあるからです。それにしても、おおらかな時代だったとつくづく思うのは、警察の防犯課の警察官と仲良くなったら、泥棒に入られた会社や家の住所を教えてもらえたこと。そこを訪ねると、ほとんど製品を買ってもらえましたからね(笑)。私の人生の転機となったのが、そんな営業先の一つとして恵比寿の宝石研磨教室を訪れたこと。宝石研磨について少しお話すると、アメリカでは、原石を自分で掘りにいき、研磨して宝石にするという趣味が長い歴史を持っています。一時期、日本でもブームになり、たくさんの教室ができました。当時はちょうどブームが下火になった頃で、その教室の社長が「教室を閉めたい。だれか引き継いでくれるといいのだけど・・・」と話されたのです。その頃、27歳でしたが、サラリーマンにはつくづく嫌気が差しており、「何でもいいから独立したい」と考えていました。それで、たったの3日間考えただけで、教室を譲り受けることに決めたのです。

--それまではジュエリーと縁のある生活だったのでしょうか。

いえ、まったく(笑)。とにかくサラリーマンから抜け出す「きっかけ」が欲しかっただけですから。ただ、譲り受けるには200万円が必要でしたが、お金がない。私の初任給が2万8000円の時代でしたから相当の大金です。そこで父親に相談したら、退職金を担保にして銀行から資金を借りてくれたのには頭が下がりました。しかし、本当に大変だったのはそれからでした。当然ですよね、そもそも経営が傾いていた教室なのですから。教室のコースは、1週間に1回、3ヶ月間で卒業というもので、おもに奥様やお嬢様の習い事でした。パンフレットを恵比寿駅の西口ロータリーで配ったり、近くの高級住宅街にポスティングしましたが、なかなか効果が上がらない。結局、朝日新聞の広告に無料講習会の広告を出したところ、ようやく生徒が集まり始めて徐々に軌道に乗せることができました。講師は私と家内と、芸大の大学院生。完全な素人からのスタートだったため、会社を辞めてから別の宝石研磨教室に通って技術を覚え、経営を引き継いだ後も家内とともに通い続けました。

--その後、専門学校として発展させていくまでの経緯は?

教室が軌道に乗り始めてから、新宿や飯田橋など都内各所に教室を増やしていきました。ターニングポイントとなったのが、36歳の頃、生徒を引き連れて、ドイツのシュッツトガルトの近くにある総合美術大学に海外研修に行ったことです。このとき、大学の中庭を歩いていた私に、まるで天から降ってきた矢が心臓に刺さったかのように、突然、あるアイデアがひらめきました。それまで、生徒は奥様やお嬢様でしたが、高校を卒業した学生を対象にデザイナーや職人を育てるきちんとした学校をつくってはどうかという考えです。帰国後、早速、準備にとりかかりましたが、そのときの不安はサラリーマンから独立したときと比にならないほど、大きなものでした。そのような学校は、日本はおろか、世界的にも前例はありませんでしたから。ヨーロッパの大学にはジュエリー関連の講義はありましたが、あくまでも「美術」の範ちゅうであり、職業技術としては教えていませんでした。「とにかくやってみたい」という強い気持ちがある一方、「自分は世の中に成り立たないことに手を出そうとしているのではないか」という不安に悩まされたことを、今も鮮明に思い出します。1975年に高校生の募集を開始すると、20人ほどの生徒が集まり、ひとまず胸をなで下ろしました。

キャットストリート沿いにあるジュエリーショップ「コラソン・コラソン」

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