まちづくりに「でかいハードがなきゃ」という発想は不要。
渋谷全体が学校になり、みんなが学びに来る街に――。
マーケティング・コンサルタント、株式会社ジャパンライフデザインシステムズ代表取締役社長、立命館大学大学院経営管理研究科教授。1942年生まれ。武蔵野美術大学造形学部産業デザイン科卒業。経営戦略の立案、地域活性計画まで幅広く活動。時代を週単位で分析し続けている週刊「NEXTHINK」はウィークリー情報分析誌の草分け的存在。21世紀の商業、観光、産業の経営を学ぶ「文化経済研究会」を主宰。その他、日本デザイン機構・理事、京都ブランド研究会・座長等を務める。東京都市大学都市生活学部(2009年4月開設)客員教授就任予定。近著「ブルーバード・マネジメント」「世界目線構想力」「ライフスタイルコンセプト」ほか多数。
東急エージェンシー在籍時代、東急本店のオープンプロジェクトにも参画。独立後も渋谷を拠点にマーケティング・コンサルタントとしてさまざまなプロジェクトで活躍されている谷口さんに、渋谷への思い、そして渋谷の未来へ向けた取り組みの視座について話をうかがいました。
--以前、渋谷のフリーマガジン「シブヤ・ウォーキング」を出されていましたね。
渋谷の中に眠っていて見つけられない情報を掘り起こして公開すれば、渋谷の本当の良さが活用されるだろう。それを何とかビジネスモデルにできないかということで「シブヤ・ウォーキング」を始めました。フリーペーパーの中では先駆け的な存在で、渋谷が成功したので銀座、新宿、池袋とモデルを増やしていきました。広告には限界がありますから、読者と広告主の両方のメリットを活用しようと思えば、できるだけ無料に近い構造をつくったほうがいい。本当はネットの方がいいのですが、あの時代はまだネットの認識がありませんでしたから、街にマガジンを配るという形が生まれました。
--最初に渋谷の街と出会ったのは?
学生時代です。私は武蔵野美術大だったので吉祥寺近くに住んでいましたが、21歳ぐらいから東急エージェンシーでデザイナーのアルバイトを始め、渋谷へ通うようになりました。当時、東急エージェンシーは、スルガ銀行のビルの上にありました。その向かい側にある電気工業組合の電気ビルにいたり、駒澤大学の校舎の跡地で余っている教室を使って働いていたこともあります。まだ何もないころですね。玉電が三軒茶屋まで走っていましたが、あとはもう何もない…そんな雰囲気でした。
--そのころの渋谷はどんな印象ですか?
モノのなかった時代でしたから、百貨店が物販の王者でした。東急東横店は「東横のれん街」を設けた時期で、非常に注目されていました。渋谷には学校があって学生が多いこともあり、活力のある、まとまりのいい街というイメージでした。渋谷周辺には魅力ある住宅街が広がっていましたから、都市と郊外が近接した街という印象もありました。ただ、いいお客さんが来るということと、東横店のレベルが上がっていくということがリンクしないなという感じは受けました。45年前ですが、当時、私は東急グループの担当で、東急本店オープンのプロジェクトにも参画しました。百貨店の中にデザインルームがあり、東急エージェンシーの百貨店担当はみんなそこに通っていました。百貨店に勤めているのかと思うほど百貨店の中にいました(笑)。そこでの経験は、今日の私の今のいろいろな考え方とつながっています。独立した後もずっと渋谷ですから、45年間渋谷にいることになります。渋谷は自分の育った場でもあります。それが「シブヤ・ウォーキング」を作った理由とも言えます。
--渋谷の来街者の質が変わってきたという印象はありますか?
まず、百貨店が中軸になって、百貨店顧客に該当するような人が渋谷に集まっていた時代がありました。その後渋谷の中軸はセンター街になりました。団塊世代の子どもたちが集まったファッションの時代。ただ、それまで団塊の世代が渋カジと呼ばれた流行を担っていたことを考えると、その次のカジュアルとしてセンター街の若者ファッションがあったので、そこには親子をつないだ流れがあります。特にその変化が顕著だったのは、団塊ジュニア世代が高校生ぐらいの時。その頃から、渋谷には急激に学生の街という色が出てきました。センター街を見ると、バイトしているのは全部学生、買っているのも全部学生。当時、学生がモノを売り、学生が買っていたセンター街での現象を、私は「学園祭」と呼んでいました。あの頃の渋谷はまさに学園祭。そこからファストフードやファストファッション、コンビニの初期といった、チェーンオペレーションの、ちょっとアメリカくさい商売がワーッと出てきた、という印象があります。それ以前にあった大人の風情は、その辺りから急速に消えていきました。
--数年後、副都心線と東横線がつながります。渋谷はどう変化すると考えられますか?
流動性は高まりますが、魅力があってわざわざ来るという可能性を高めておかないと、渋谷は単なるターミナルになる可能性もあります。例えば横浜駅が先行事例ですね。東横線は地下5階まで降りて、乗り換えは良くなりましたが、街としての「フェース」は失っていますから。
--どうすれば渋谷駅で降りてもらえるのでしょうか?
従来の渋谷では、やはり駄目。街に奥行きと高さをもった文化を積み上げて行くことが必要だと思います。20世紀初期には、文化・芸術の集積のためには、ハード面の充実が重要でした。ところが今は箱物をいくら造って駄目。21世紀はそこで何かが行われるための「時」を繰り返し生み出していくことがより重要になっています。カーニバル、フェスティバル、現代美術であれば「渋谷トリエンナーレ」とか…。世界からいろいろなアーティスト、クリエイティビティの高い人が集まろうとすると、集まるための「時」が要る。その「時」が場を活性化させます。「時」をつくって、その「時」を育てる発想が必要です。その時、「でかいハードがなきゃ」っていう発想は捨てていいです。幾つものハードを組み合わせればいいですから。Bunkamuraでも、青学でも、どこでもやればいい。あとは、スモールミュージアム、スモールギャラリー。そこが圧倒的なカルチャーツーリズムの拠点になります。大仰でけん引的な芸術から、個人を主人公にしていくことができる、もっと個性豊かで、微に入り細に入る――そういう個人文化芸術が豊かさですから、そういうものを集結させるためには、あまり大仰な装置だけだと不都合です。ニューヨークのMOMAも、廃校になった公立中学の跡地を使って、それをセカンドMOMAとしてミュージアムにしています。私は、戦略的にはパリに学ぶべきだと思います。クリエイティビティが未来を創造するわけですが、クリエイティビティの高い人を集める「時」として、パリはファッション界ではパリコレを用意しました。建築界では世界の建築家に声を掛け、依頼建築をやらせました。街がひとつの建築のミュージアムになるようにしようと。また異邦人アーティストを集めるために、そういう人をもてなすエリアも作りました。こういう戦略によって、19世紀、アーティストはまずはパリに集結しました。当時のパリは、新しいアイデアを出すという都市としての能力がウーッと上がっていきました。この手法はそのまま今、ベルリンやシカゴが引き継いでいます。その前はロンドン。ロンドンは産業革命を通じて技術革新しましたから。ニューヨークは現代美術に絞りながら、文化的集積度を高めた「時」がありました。
--渋谷でもいろいろなイベントを実施しています。違いは何でしょう?
確かに、渋谷でもそれを真似してはいます。「東京コレクション」もやりましたし。ただ、そこには思想がありません。問題が金の話にしかならないでしょ?現在も、100年に1回の不況だというような認識しかもっていない。金を注入すればいいと思っている。でも、そうじゃない。今は「あなたは何を大切に生きますか」ということが問われている社会に突入しています。それなのに、「何が儲かるか」の延長上で考えていては、何も儲からないことがわかるだけです。そうではなく、渋谷はどんなコンセプトを重視し、何をもって世界へ向けてステージを引き受けるのかという「思想」が必要なのです。新しい未来に対して門戸を開くためには、世界の登竜門を持たないと…。過去を反映させているだけでは駄目だと思います。
--どうすれば街にひとつのコンセプトを提示できるのでしょうか?
「現場百回」の思想が重要だと思います。現場の中から参加した人がそれぞれ小さなアイデアを持ち寄っていく当事者認識は、日本のDNAの良さですから。ただ、一方で何が大事なのかというものに対しては、視座を投げ込んでいかなければなりません。現場が捉える現実は理想によって革新され、理想は現実によって磨かれます。現場の参加者を烏合(うごう)の衆にしてはならないし、リーダーは利害のリーダーではなく理想のリーダーとして、いろいろな人の意見を集約し、そこから出てくるビジョンを言葉に換え、絵に換え、提示しなければいけません。みんなの意見を調整しているだけでは、より下がった平均点のところで納得をすることになってしまいます。これは駄目です。そのために非常に果敢で透明性の高いメディアのような存在になり、志を持って渋谷を引き受けていくことです。加えて、その時に経済によらない着眼点を出す必要があります。そこで必要となってくるのが、「文化」の集積に対するアプローチです。文化とは一朝にしてならずの違いを育て、磨き上げたもの。そういうものが幾つもあると、絶対まねのできない街になります。「オリジン」が湧き上がり、「違い」がニュースになる――そういうステージになるといいですね。やはりそういう形にならずに箱だけつくって、何をよそから持ってきたみたいなことをやっていると、輸入業者のようにお金ばっかりかかって続かなくなります。
--世界の人が訪ねたいと思う街を考えるとき、文化の中軸を成るものとは?
いくつかあります。ひとつはミュージアム、ひとつはシアター。もうひとつはスクールです。あと病院、ツーリストをもてなすためのホテル、それとレストランカフェです。渋谷には、いいレストランやカフェが集結してない。ホテルもまだ弱い。ミュージアムもこれというのをまだつくれていない。東急本店にはBunkamuraがあるので、そのままをミュージアムにすればいいとも思います。商売から入っていくとできない発想です。そうでないと、売った方がましになってしまいますから。
--ほかの街と比べて、今の渋谷が差別化できていると感じるところは?
shibuya109でしょうね。109は、店舗しかないような煙突型の建物です。あそこは1年のうちに60店舗が入れ替わる。あれ自身がメディアなんですね。変化を受信する構造が、お客にとって一番魅力になりやすいという考えが根底にあります。同じ服をもう1回売るのではなく、次の服を売るという行動のある人ばかりが集まっていますから、いわゆる坪単位の生産性という意味では、あそこが世界一です。そのほか「東京ガールズコレクション」もあります。つまりそうしたトレンドニュースソースに対しての発火地点という点においては、109はそれ自身がメディアステーションとしての価値を持っています。その延長上にセンター街がある。H&Mの出店も、それを見越したものでしょう。H&Mは、東急本店の前に出るのではなく、こっちが109、こっちがH&M、その間をモールとしてセンター街につないでいる。きっと、センター街は新しいポジショニングに変わるでしょうね。もっと素敵な店が増えるといいなと思います。そうしたものを仕掛け込んで、しょうもない店は地上げしてでもいいから、はめ込まなきゃいけません。そうすると、あの辺りがシティモールになります。それは大変なインパクトになりますね。
--渋谷に足りないものは何でしょう?
渋谷には、大学を中心にしたカレッジ群がありますが、それに対して仕掛けが足りません。青学があったり、國學院があったりするので、イベントを起こすとしても、それをどういうパネルでやっていくかを考えなければいけません。22世紀を語ろうという学生のパネルをつくり、渋谷文化が担い手となってパネラー選びも含めて公開し、彼らにディスカッションをしてもらえば、大変なニュースソースになります。それをネット上で配信すれば、それこそ渋谷放送ですね。それから、渋谷には出版社がありません。渋谷の中に、日本の文化や世界文化を担うような、Bunkamuraに対応する文化パブリッシングとかいうような、そういう出版のターミナルがあればいいですね。いろんな出版社の力を借りて、コア企画だけ立ててでも、とにかく継続して出版して行く。なかなか出し切れないような小口文化の本なんかも、小ロットでバンバン出せばいい。売れるから出すのではなく、出すべきだから出す――それが売れたらいいなぁという話で支えていきます。これを支えるのは、メンバーがしっかりしなきゃ駄目です。渋谷文化クラブを作ってはどうでしょう?集まった人に対して登録を要請するのでなく、登録を自動的にできる仕組みで、市民パトラナイゼーションをつくる。事務局はBunkamuraでもいいと思います。小さなギャラリーでオープニングやったときにも、登録をしてもらうような仕組みになるといいですね。