#シブラバ?渋谷で働く、遊ぶ、暮らす魅力を探る

KEYPERSON

渋谷は、ある種の落ち着きがある。あれがすごく大事なこと
ただしアート系からすると手強い街。確実に線が引かれている

株式会社ニューアートディフュージョン代表取締役芦野公昭さん

プロフィール

芦野公昭(あしの・きみあき)

1947年、東京生まれ。1970年、早稲田大学第一商学部卒。1971〜75年、滞仏。1975年、西武美術館開館に合わせて設立されたニューアート西武の常務取締役(82年から代表取締役)となり、「アール・ヴィヴァン」「ストア・デイズ」等の運営に当たる。79年リブロポート設立に美術書担当役員として参加、エゴン・シーレ、アンドリュー・ワイエス等の画集、エルスケン、ドアノー、ラルティーグ等の写真集を手掛ける。1997年、西武百貨店の文化事業撤退で(株)ニューアートディフュージョン設立。表参道に「NADiff」を設け、東京都現代美術館、同写真美術館、東急文化村などに出店。「NADiff」は昨年ビル取り壊しに伴い閉店。今年7月恵比寿に「ナディッフ アパート」を開店。

美術書、写真集などを扱い、その独特なセレクトで人気を集めるアートショップ「ナディッフ」を率いる芦野さんは大の渋谷好き。パルコにできた西武劇場に衝撃を受けた1970年代から、Bunkamuraとアートの関係まで、自身の記憶をひもときながら渋谷の魅力を語っていただきました。

パリ在住時代、西武劇場のこけら落としにガツンと衝撃を受けた

--最初に渋谷の街と出会ったのはいつごろですか?

大塚生まれで、中学・高校が日暮里と田端の間の学校へ行っていました。そのころは西日暮里の駅がなかった時代ですので、城北方向の子どもだったんですね。小さい時はプラネタリウム好きだったので渋谷に何度も来た覚えがあります。中学の後半、高校あたりになると、渋谷へは本を探しによく大盛堂さんに行きました。大盛堂さんの思い出はすごくありますね。新宿を通り越して紀伊国屋さんへ行くのは、何だかみんなが紀伊国屋へ行くので嫌だなという、ちょっとあまのじゃくだったのかもしれませんが、大盛堂さんの、最後までヘンテコな本のそろえ方は嫌いじゃなかったですね。今みたいにはやりの街とか、そういう意識は全くありませんでした。

--それ以降は?

大学を出て、就職をして、その間はあまり渋谷に来ていませんでした。私は1971年からパリに住んでいたんです。72年だったか、73年だったか…日本から送られてきた週刊誌で、渋谷パルコの上にできた西武劇場(現「PARCO劇場」)のこけら落としが武満徹の現代音楽「ミュージック・トゥデイ」だったという記事を見た時、ガツンと衝撃を受けました。渋谷にそんなものができて、こけら落としが武満徹。何なんだっていう、知らない間に突然日本が変わったのか―みたいな印象を受けました。その1年後ぐらいに日本に戻ったのですが、パリでの知人から「日本でやるんだったら、この劇場でリサイタルをやりたい」みたいなことを言われて、人のつてを頼って、当時のパルコの増田専務のところへ資料を持っていき、プレゼンしました。これが、渋谷との縁の始まりだと思います。その後、1975年の夏前だったと思いますが、フランスのエリック・サティという現代音楽の父みたいな人が50年前の7月に亡くなったのに誰も何もしようとしていない。今からでもいいから、急きょイベントをやるかっていうことになって…。今のゼロゲートがあった場所(パブパルコ)のレストランシアター「キングスベンチ」を借りて、エリック・サティ没後50年記念コンサートを何日間か打ち、そのとき集まった人間たちのうち、音楽系でない人間たちだけで池袋に作ったのが洋美術書専門店「アール・ヴィヴァン」でした。

--「アール・ヴィヴァン」のコンセプトは芦野さんがお作りになった?

ええ。パリにいて、パリから送った荷物が、当時、まだ羽田の税関で引っかかってしまって、その問題を解決するためにいったん日本へ戻ってきたんです。そのときに、パリから変なのが帰ってきたっていうんで、堤さん(当時のセゾングループ・オーナー)に会わされて、赤坂の料理屋か何かでご飯をごちそうになった。1974年の秋だったと思いますが、呼ばれた理由は、池袋西武に美術館を造っている最中で、その美術館で今までの美術館とは違うことをやろうとしているんだけども、もっとすそ野を広げるやり方に何かアイデアはないかということでした。ご飯をごちそうになったりお酒をごちそうになったりすると、ちょっと芸を見せざるを得なくなるっていうか(笑)…。普通だったら、「いや、とんでもない」っていうふうに答えるところを、よせばいいのにそこで言っちゃったんですね。「美術館だったら、売店はどうなさるんですか?」「売店までは考えてなかったな」って。「じゃあ、売店を装った、その街一番の美術書の書店を作られたらいかがですか」ってお話しした。それは面白いっておっしゃっていただいたのですが、その場はそれで。1週間ぐらいたって、あの話、役員会で通ったので実現してくれって。

--それは大変なことになりましたね。

それから丸善さんへ行ったり、美術業界をいろんなところへ走り回ったりして、テナントとしての出店を依頼に行きました。でも、どこへ行っても、「池袋で洋書は売れない」「洋書の中で美術書は売れない」「美術書の中で現代アートに限る?」…とんでもない話だということで誰も出てくれなかった。ところが、ご存じの通り、百貨店って動きだすと早いでしょ。どんどん設計が進み、空間がどんどんできていく。総ステンレス張りの、スーパーポテトの杉本貴志さんの初期の作品です。それで店の名前を早く決めろとか、訳の分かんないことを次々言ってくるんです。結局、いろいろ試算してみると採算が合わないことがわかり、「じゃあ、どうするんだ」「そんなものは百貨店ではできない」ということで、堤さんや私も含む何人かで資本を出して小さな子会社をつくりました。とにかく言い出しっぺは誰だっていうことになって、何かすごく悪いこと言ったみたいな雰囲気になって…結局、日本へ戻ってきてそれをやらざるを得なくなっちゃった。というのが、巻き込まれたいきさつですね(笑)…。

美術書は、今買うのかどうしょうかという葛藤を楽しんでほしい

--結局、自力で、店を経営せざるを得なくなったわけですね。

そうです。結局、みんなが百貨店も初めて、自分たちでビジネスするのも初めて、みんなまともなサラリーマンやった経験もない状態ですから。私も半年でサラリーマンをしくじった人間ですから。そんなのばっかりが集まってやったという会社ですね。

--ふたを開けてみると、いかがでしたか?

それはびっくりしますよ。当時、百貨店が恐ろしいなと思ったのは、こっちは何も宣伝してないわけですが朝10時の開店を迎えて、エレベーターが開くと、ワーッとお客さんが降りてくるじゃないですか。皆さんもそんな美術館があるとは知っていても、その横に洋書の美術書をザーッと並べた本屋があるなんて知りませんから、ちょっとびっくりしたりするんですけども。一人の方だけ、そのまま本屋のほうへ来て、バーッと眺めて…10時15分か20分ごろに最初の1冊が売れたんですよ。13,800円の本で「エイブラムス版『ブランクージ』」。今も覚えてます、涙が出るほどうれしかった。

--それ以来、現代美術の本を集めた業態が生まれるわけですね。

そうですね。書籍というものが、和書であろうが洋書であろうが、もう店舗へ出向いて、それも小さな店舗へ出向いて買うという商品じゃなくなっていますよね。それは、そういうことをやってきた人間にとっては大変悲しいのです。だけど、特に美術の本は中を見ていただきたい。美術じゃなくたって中を、肌触りを感じてほしいと思いましたね。10年ちょっと前にナディッフを始めたときに、もうすでにそういう時代になっていましたから、どうしようかと思ったんですけども、でも現物を開けて中を見られるっていう場所がなければ、買う・買わないはその後の問題であって、とにかく触れる場所がないなんてとっても寂しいじゃないかって。そこでナディッフを始めましたが、ますますそういう時代になってきていることも事実です。どんどん書店さんがなくなっていますから。図書館と同じだけ本があったとしても、図書館と違うのは、図書館は借りていく、そんなにお金はかからない。でも、お店に商品である本があるっていうことは、うちはどんな高価なものでも立ち読みしていただきますから、気持ちが乗ったら、「どうする、どうする」って、たぶん内部で葛藤が起きると思うんですよね(笑)。その高額さ故にとか、これからご飯食べに行くときに本なんか抱えていいのかとか、いろんな事情で、今買うのかどうしようかという葛藤を楽しんでいただきたいなという風に思います。

--最近でも渋谷には出没しますか?

昨日、おととい、この土曜日も渋谷で飲んでいました(笑)。渋谷は好きなんですよ、実は。「とみ廣」という地下2階の飲み屋にいました。「のんべえ横丁」の店も好きです。食事というよりも、飲む方ですね。渋谷で、一つ仕掛けで失敗したことを思い出しました。Bunkamuraの店(NADiff modern)には1890年代のパリの「黒猫」というキャバレーの本当のポスターがいつも掛けてあるんです。一方、渋谷パルコの地下にベルギービールを中心とした「イドロパット」という名前の店がこの5月までありました。実は私が名付けたのですが、それは1890年代にパリにあった世界で最初の文学キャバレーの名前なんですね。そこをやってた人間が、店を閉めて、もう一人の人間とモンマルトルの方で「黒猫」というキャバレーを作った。テオフィル・アレクサンドル・スタンランがあのポスターを描いて、かなり有名なポスターになった。そういういきさつがあるのですが、「黒猫」があるところからそう遠くない所に「イドロパット」という店がある。この事実を誰か書いてくれないかなと思っていました(笑)…。

--今の渋谷の街は、どのようにとらえていますか?

パルコがどうのこうのっていう後に、渋谷をワッと意識したのは、国連大学ができる2、3年前ですね。建築中の国連大学の後ろで遺跡が発見されて、あの辺の建築が一時ストップしていた時期があります。その時、国連大学を準備していた文部官僚の方に原稿を依頼していたので、それを取りに行ったら、「面白いものが見られるよ」と言って、その遺跡の発掘現場を真下に見ることができたんです。それを見て、顔をちょっと上げると、駅の向こうの渋谷が一望できたわけです。その時初めて渋谷というものの地形を意識したんです。国連大学の方は、いわゆる渋谷川の南斜面ですよね。宮益坂から降りていき、それで向こう側がまた道玄坂に上がっていくという、あのかたち。宇田川という川があり、いわゆる谷地のところがこうなっていっているんだと実感しました。眺めていた真下は、弥生時代から江戸時代に至るまでの遺跡が発掘されている現場です。あのときに見たあの景観は忘れられませんね。そのとき渋谷川を、初めて強烈に意識しました。つまり、足もとに堆積している遺跡も、渋谷川の南斜面だからこそ、こんなに人々がずっと昔から住み続けていられるわけですよね。翻って向こう側は、その谷地はやっぱり北斜面ですよね。ここ(ナディッフ アパート)もある意味で北斜面ですが、北斜面の底地の所が渋谷の駅の回りなわけです。その現実を目の当たりにしたときに、あの渋谷の複雑な面白さを実感しました。谷地なのに発展している。ちょっと普通では考えられない。谷地は、一番最後に来る場所ですよね。それも、あまりいい発展の仕方をしない街なはずなのに、これは一体何なんだろうっていうことは考えましたね。

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