一番大切で難しいのは「おいしさと笑顔」 そういうことを伝承していきたい
ライバルは青山や代官山も含め路面の実力派人気店
愛知県名古屋市出身。1987年、東急ホテルチェーン(現・東急ホテルズ)名古屋東急ホテル入社。1993年、フランス料理研修のため渡仏。帰国後、2001年5月のセルリアンタワー東急ホテル開業当初より総料理長を務める。数々の料理コンクールで最優秀賞に輝くなど、現代日本におけるフランス料理界の発展を担う存在。総料理長としてホテル内のレストランやパーティーで提供される全ての料理をプロデュースするかたわら、自らも腕をふるう「現場視点」の料理長。コース全体にストーリー性があり、オードブルからデザートまで五感で楽しむ料理が次々と展開する様子に、ファンも多数。2008年、「フランス農事功労賞 シュヴァリエ」を受賞。
昨年秋、日本に初めて上陸した「ミシュラン」でフレンチ「クーカーニョ」が一つ星を獲得したセルリアンタワー東急ホテル。開業以来、総料理長を務める福田さんは今年、「フランス農事功労賞シュヴァリエ」も受賞した。渋谷のフラッグシップホテルの味を支える福田さんに、ミシュラン獲得の思いや渋谷の街との関係をうかがいました。
--昨年、「ミシュラン」の一つ星を獲得しましたね。
ミシュランに関しては、我々もまさかミシュランという評価査定が来るとは思っていませんでした。料理人は、あのミシュランに憧れて料理を目指している人たちが99%いるといっても間違いないと思います。「ミシュランの星を持っているところで働きたい」「そこで何年務めた」…それはある意味で自分たちのプロフィールにもなります。今回、ミシュランの発表で最も影響を受けたのは、平成生まれも含めた若い子たちがいよいよ社会人になる時に、日本のミシュランを持っているところで働いてみたいということで今年から働き始めたわけですね。これは大きな出来事です。我々は30年前になりますが、そんなホテルで、そんなレストランで働いてみたいという夢を海外に抱いたのと同じようなことが、この渋谷の地で現実に行われていると思うと、何とも言えない気持ちですね。まだ夢見心地です。
--お客様の反応は、どのようなものですか?
通常都心で働いている方たちも、住まいは世田谷や目黒にお住まい方が多く、スイッチがオンのときにはどちらかというと虎ノ門や赤坂近辺のレストラン・料亭などで会食をされる機会が多いと思いますが、当ホテルはどちらかというとスイッチを切ったときに、少しネクタイをはずして家族の方や気心知り合った人たちとプライベートで使われるケースが多い。そうした意味では土日需要というのはかなり高い。開業から今日まで、土日の予約を取るのは非常に難しいのは事実です。一番うれしかったのは、ミシュランを取ったから来るのではなく、「私たちが使っているところが評価されたのね」という感じで接していただくことです。ミシュランのために行列ができたりということがなかった分だけ、ご迷惑を逆にかけずに良かったのかなというのもあります。我々があえて「ミシュランを取りました」ということではなく、お客様の方から「取ったらしいわね」と一言さりげなく言われると、ほんとにスタッフとしてはうれしく感じますね。
--今年も、来年も(ミシュランは)あるわけですが、今後はどのように臨みますか?
万が一無くなった時の言い訳をするわけではないんですけれど(笑)、評価はお客様がするものであって、評価のために仕事をしているものではないと思います。我々も星を追い求めるのでなく、きちんとした仕事をしていきながら、きちんとした評価も後からついてきてくれるような、そういうスタンスを、多分このホテルゲストの方たちが望まれていると思います。ミーハーだったり、○○○だから行ったりするというのではなく、いつも使っているレストランを、いつもある程度のレベルに保つことが大事だと思います。それが1年でも2年でも続くというのは、やっぱり力の継続だと思いますから、その努力はもちろんやっていかなければいけないと思います。ちなみにパリの人たち100人に聞いたアンケートなんですけれど、パリの中でもガイドブックを見てレストランに行きますかという人は40%。残りの人たちの多くはよく知っている人たちに「どこ行った?」「どこがいい?」という話の中から店を選んでいるそうです。逆にいうと60%の方は左右されない方ということです。こういう方に支えられる店でありたいと思っています。
--今年に入って、福田さん自身もシュヴァリエ(※)を受賞されましたね。
このホテルが開業するにあたり、フランス料理をきちんと紹介していこうということで、開業以来、いろいろなシェフにフランスから来てもらったり、助けてもらったりしてきました。ですからフランスからきたシェフたちはこれまで十数名がここのホテルを舞台に活躍したことになります。そうした社会貢献というか、フランスと日本の架け橋をいくつかセルリアンが担った経緯があります。そんなことをフランス政府が評価していただいたのではないかという気がします。フランスは農業国ですから、料理を通じてフランスに貢献したということが農事功労賞というかたちで評価されたんですが、日本では年に2人しか受賞できなくて、私の歳で頂くのは珍しいと言われます。もちろん、これは私一人でやれることではないと思っています。
※シュヴァリエ…フランス農事功労賞(L' ORDRE DU MERITE AGRICOLE)は1883年に創設され、農業、水産大臣より与えられる勲章のひとつで、フランスの農産物や料理などを通じて、フランスの食文化の普及に特に功績のあったフランス人や外国人に授与する勲章。
--開業時、競合などは想定しましたか?
計画当時、渋谷ではこれだけの大型ホテルの進出は他にあまり考えられないため、一番の競争相手というのは、青山や代官山も含めた街場の路面繁盛店や有名店を考えました。この考え方は今も変わりませんが、当時は特に、有名個人店のシェフなどが台頭していたところが多く、これに勝ると劣らないしっかりとしたものをやっていかなくてはならないということが、レストラン作りや飲食店作りの基本になっていったと思います。ですから「メインダイニング」や「コーヒーハウス」などの呼び名にせず、まさに普通のテナントを誘致したような、そんな考え方で各店をやっていこうというのが一つの方向性でした。「かるめら」や「ベロビスト」などの名前を付ける時も自分の子供の名前をつけるようで…今思い出すと、感慨無量ですね。いつまでも名前があってほしいなと思います。
--どのあたりからセルリアンタワー東急ホテルの仕事にかかわったのですか?
ここがまだ何も建っていない、ここは下を掘りながら上を建てていくという同時進行で建てていったのですが、1階あたりを工事しているころに着任しました。1999年のことです。通常、我々はフライパンだったり調理道具のことから関わるのですが、僕の仕事というのは見たこともない設計図と物差しを持ち専門家に聞きながら、厨房設計から始まりました。今思えば、その2年間、マーケティングの方も含めいろんな方たちと仕事をすることで、今までにない経験ができました。これは自分にとってとても充実した時期でもあったし、また、店の名前を考えることというのは、メニューを考えることはあってもそんなことはそうあることでもありませんし…大きなチャンスを与えてくれた。そういうことから関わることで、ここのホテルの立ち上げの進め方が理解でき、本物志向の上質なホテルをつくることことができました。完成まで、実にいろいろな方と仕事をご一緒しましたが、大きなプロジェクトに携わっている優秀な方と一緒に仕事をすることはほんとに刺激になると思いましたね(笑)。