カルチャーの拠点という強みを活かして渋谷にしかできない街づくりを目指してほしい
1958年生まれ。82年に一橋大学を卒業し、パルコに入社。マーケティング情報誌「アクロス」編集室に勤務し、のちに編集長を務める。その後、三菱総合研究所勤務を経て、99年にカルチャースタディーズ研究所を設立。団塊ジュニア世代や団塊世代の世代マーケティングを中心に、商品企画やデザインのための調査やコンサルテーションに携わる。さらに独自の「郊外社会学」を展開し、「下流社会」「ファスト風土」などの概念を提案、幅広い視点から社会を分析している。「下流社会_新たな階層集団の出現」(光文社)、「難民世代_団塊ジュニア下流化白書」(NHK出版)など著書多数。2007年4月には、吉祥寺の人気の秘密を解き明かし、集客できる街や店作りのコンセプトを提案する「吉祥寺スタイル」(共著・文藝春秋)を上梓。
--三浦さんと渋谷との出会いは?
足を運ぶようになったのは82年にパルコに入社してから。パルコを選んだのは出版の仕事をしたかったからで、場所はどこでもよかった(笑)。人によっては79年がファッションタウンとしての公園通りのピークだったとも言いますよね。その頃は今なら「バーニーズ」に通うような尖った人たちが集まっていたらしく、「アクロス」の通行人調査では、80〜81年の公園通りには1時間4千人くらいが歩いていた。80年代前半にもまだ小ぎれいな人は歩いていたけど、84年くらいからかな、センター街にファストフード店が増え始めた。その頃から渋谷の大衆化が始まって、90年には公園通りの通行人は2千人くらいに減るんです。代わりにセンター街が渋谷の中心になって、ファッションタウンというよりも盛り場としてのイメージが強まり、街が汚くなり始めた。まぁ、渋谷という街は、もともとが盛り場だったんですけどね。
--それに伴って、街を歩く人の様子も変わってきたということですね。
80年代には、パルコのほかにもファッションビルが増えて、東急本店通りの開発も進み、街が面的に広がっていったんですよ。すると、だんだん街が拡散して、大人や若者、高校生など、世代によって居場所が分かれるようになった。それが80年代後半くらいでしょうか。その後のバブルの時代が、渋谷の街を一変させたといっても過言ではないですね。地上げが進んで、ビルがどんどん建ち、昔ながらの料理屋なんかが次々に店を閉めちゃった。今では驚くことに、渋谷駅周辺で自分がオーナーとして商売を営む店は2軒しかないらしいですよ。他のオーナーは、テナントとして貸し出して、別の場所に住んでいるんですね。すると、街に愛着が湧きにくいから、景観なんて無関係にどんな店舗でも入れちゃえということになる。そのおかげで、一部の地域は風俗店だらけになっていますよね。僕は、つまるところ、街の文化とは、どれだけ、その街を愛する人がいるかで決まると思うんですよ。そういう意味では、今の渋谷は嘆かわしい状況ですよね。もともと花街だったから食文化があったはずだけど、それもほとんど失われてしまった。そのあたりには、渋谷という街の荒廃を感じますね。
--では、今の渋谷の強みはどのあたりにあるのでしょうか。
映画や芝居、音楽などのカルチャーの拠点であることは強みですよね。映画館や芝居小屋のほか、DJが集まるレコードショップなんかもたくさんあるでしょ。ああいう店をハシゴしてみると、やっぱり面白いんですよね。そういうところは渋谷ってすごいなと思うし、この街が世界で活躍するDJやダンサーを輩出しうるんじゃないかと思う。フラフラしている若者も歩いているけど、そういう光景も、音楽や芝居を書いたりするクリエイティブな人間にとっては、きっと、ある種の刺激になっているでしょう。80年代の渋谷や原宿は、夢の実現のためにあえて就職しない、元祖フリーターが集まる街だった。その夢は音楽や映画や芝居やファッションだったりして、渋谷や原宿は彼らをインキュベートする街でもあったと思います。今では単に働きたくなくてフリーターになる若者が渋谷の街に座り込んでいるけど、やっぱり、中には夢を持ったフリーターもいる。そういう若者を引き付ける力は、今も強いと思う。
--渋谷と他の街とのカルチャーの質の違いは?
渋谷は、音楽や演劇などのパフォーマンスと映像に関するカルチャーが強いよね。昔は活字文化も若干あったけど、今はない。僕はずっと吉祥寺に住んでいるけど、渋谷とは逆に中央線沿いの文化は、音楽や演劇よりも、活字文化が強い。僕の担当編集者も皆、西荻窪に住んでいるし(笑)。それから池袋などと比べても、やはり渋谷は文化度が高いと思う。書店で売れ行きの良い書籍などをチェックすると、そう感じることがありますね。また、新しい何かを発信する力も、文句なしに日本一でしょう。