戦後闇市の面影を残す「渋谷のんべい横丁」、若者や外国人を惹きつける「本物の横丁」の魅力とは?
1965年埼玉県生まれ、幼少から小学校5年生までアメリカ・ヒューストンで過ごす。大学卒業後、1990年に(株)ハイビジョンコミュニケーションズに入社し、黎明期であったハイビジョン試験放送の制作などに関わる。1997年に(株)レイに転職し、イベントディレクションや演出などを手掛ける。2007年に(株)Zを設立し、代表取締役社長に就任。インタラクティブな空間演出を得意とし、東京モーターショーや海外のサーカス・パフォーマンスチームのアーティストを使ったライブショーなどのステージの企画制作・演出等を手掛ける。2009年に渋谷のんべい横丁・飲食店「会津」の運営を引き受ける、現在は隣店舗の「松菊」の経営のほか、のんべい横丁の広報・渉外も担当している。
JR渋谷駅の線路脇に密集する飲食店街「渋谷のんべい横丁」。戦後(道玄坂付近)の闇市を発祥とし、1950(昭和25)年に現在のエリアに抽選に当たった40店舗の飲食店が移動し横丁が生まれた。以来、今年で68年の歴史を持つ渋谷を代表する飲み屋街の一つだ。この古き良き昭和ロマンの香りを残すこの一角に、今から20年ほど前にふらりと立ち寄ったのは、空間演出の会社を経営する御厨浩一郎さん。酒好きから、いつしか飲み屋のママと仲良くなり、常連になり、10年ほど前からは本業の傍ら、夜になると店主としてお店に立つのだという。一体、何に魅せられたのだろうか。今回はのんべい横丁広報・渉外も担当する御厨さんに、店主になるまでのいきさつから、のんべい横丁の歴史、昨今増加する若者・外国人客などについて、じっくりとお話しを聞きました。
若者文化の情報発信地である渋谷の中で、オヤジ文化の代表格である「横丁」が確かな存在感を示している。その魅力に迫ってみたい。
_御厨さんが初めて「のんべい横丁」を訪れたのはいつ頃ですか?
後背に東郷神社が見える、原宿・竹下通りにある御厨さんのオフィスでインタビューを行った。
30代の前半ですかね、ふらっと行ったのがきっかけ。だから、もう20年くらいかな。当時はオジサンしかいない横丁で、若者は誰もいませんでしたけど(笑)。中でも「会津」、いま僕がお店を手伝っているこの店なんですけど、大ママの吉澤トシ子さんと仲良くなって、一時期は飲み友達とほぼ毎日行っていたくらい。そうこう飲んでいるうちに、おばちゃんの具合悪くなって10カ月ぐらい店を閉めてしまった。そうしたら、おばちゃんが弱気になっていたのでしょうね、「もうお店やめるから」と言い出して、でもそれは寂しいなと。そこで、おばちゃんが娘みたいに可愛がっていた常連のマサミちゃんと僕で、おばちゃんから鍵を借りて、見よう見まねでお店を開けたのが、今から9年くらい前です。しばらくぶりにお店を開けたら、「ママはどうなっているの?」とお客さんが戻って来てくれて。僕らはおばちゃんの病状をお客さんに伝えてあげたりしていました。
_お店を手伝い始めたとのことですが、御厨さんの本業は何をされているのですか?
空間演出です。もともとは映像やCGなどマルチメディア系の仕事や、モーターショーなどのイベントの制作などをやってきましたが、10年前に会社を設立して、今は主にインタラクティブなイベント演出などをメインで手掛けています。例えば、京都国立博物館で開催された「大琳派祭」で、プロジェクションマッピングをやったり、海外のサーカス・パフォーマンスチームのパフォーマーを使ったライブエンターテイメントの企画制作・演出など……。また渋谷でいえば、商業施設に大型デジタルサイネージがありますが、青、赤信号の色を検知して、リアルタイムに映像切り替えを行う画像解析システムを開発するなど、ちょっと変わった特殊なシステムも組んだりしています。
_飲み屋とは全く無縁の世界ですね。じゃあ、お店を手伝い始めてから、本業のお仕事はどうしていたのですか?
今回の店舗撮影時には、大ママの吉澤トシ子さんがたまたま来店。故郷・会津の地酒「栄川(えいせん)」を、冷やでクイクイと美味しそうに召し上がっていた。
当時はリーマンショック、3・11が続いたため、僕らの仕事は本当に暇な時期で、ある意味ちょうど良かったです。だから毎日横丁に立っていましたよ(笑)。そのうち、徐々におばちゃんも元気が戻ってきて『私、もう一回やれるかもしれない』って。90歳ぐらいの時に復活して、しばらくは週2回の頻度でお店に出ていました。ただ今はもう、97歳で足が悪いので、さすがにお店には立てませんが、今でもすごく元気ですよ。昨年も旅行に行きたいというので、お客さんがおばちゃんを担いで、みんなで会津に行ったり……とか。先月もおばちゃんの誕生日会があって、常連20人ぐらい集まってお祝いをしたばかり。おばちゃんがお店に立たなくなってからも、常連さんたちとは家族のような付き合いが続いています。
_「会津」の隣のお店も、御厨さんが経営をされているんですよね?
「松菊」ですね。僕、年寄り好きというわけじゃないですけど、横丁のおばちゃんたちと仲がいいんですよ。もう、亡くなっちゃったおばちゃんたちも何人もいるんですけど、みんな仲が良かったので。隣のおばちゃんも僕らが始めた頃、『あんたたち、右も左も分からないのによくやっているね!』って、すごく優しくしてくれて。でも具合が悪くなって、やめちゃったんですよね。3年ぐらい空き店舗になっていたのですが、『隣の電気が消えているのも嫌だから、電気を付けるという感覚でお店をやらせてくれませんか』と姪っ子さんにお願いしたら、「僕がやるんだったら」と了解をもらって。「居抜きのままで、お店の名前も変えずにやりたい」といったら、姪っ子さんも小っちゃい頃から慣れ親しんでいたお店みたいで、賛成していただきました。いま、「松菊」には女の子に4人入ってもらっていて、商売はとんとんな感じ。お店を始める時に、畳みを替えたりした基本的な修理代は、まだ回収できていない状態ですが(笑)。
_50年以上通う常連がいるそうですが、「のんべい横丁」が持つ一番の魅力とは何ですか?
たぶん、来ていただいたら分かるとは思うんですけど、単純に言えば、こういう飲み屋さんって落ち着くんですよね。今はなくなっちゃったじゃないですか。どこに行ったって商売じみているし、レトロに見えても全部造られたものが多いし。のんべい横丁は本物のレトロ、本物だと落ち着くんですよね。あと、のんべい横丁の魅力は、やっぱり人のつながり。近所のおばちゃんが「醤油貸せ」だの、「実家からみかんを送って来たから食べなよ」と言ってくれたり、おばちゃんがテーブル壊れたと言ったら、「どこどこ?」と言って直しに行ったり……。そういうのは昔の長屋とか、ご近所にはどこにでもあった風景だと思うんです。
昼間は空間演出家、夜はのんべい横丁の店主と、2つの顔を持つ御厨さん。優しい笑顔、物腰の柔らかい接客で、常連さんを中心に居心地の良い空間を作り上げている。
_今、御厨さんはのんべい横丁の広報とか渉外も担当されていますが、どんな経緯でやることになったんですか?
40軒ある店舗のうち、実質稼働しているのは38軒あるのですが、だんだん取材や撮影が増えています。組合のメンバーはみんな高齢になってきたので、それをやるのは結構大変なんですよ。基本、僕は面倒くさいことをやろうと思っているので、「僕のところに連絡をくれたら、すべて処理しますよ」と言って、取材がスムーズに進むようにしたんです。「撮影はこうしてください」「これはやらないでください」というルールをつくったり、撮影料金などの料金設定も変えたりして。
_ちょっと話を遡って、「のんべい横丁」のそもそもの成り立ちや、歴史を改めて教えていただけますか?
僕も聞いている話ですけど、戦後、道玄坂から東急本店の間に闇市が百数十軒あったそうなんです。戦後からしばらく経た昭和26年頃、「闇市を一斉に撤去しましょう」という露店撤去令が出来て。そのときに、のんべい横丁のおばちゃんたちは「当時マッカーサーが……」と始まるんですけど、事実マッカーサーが御触れを出したみたい。とはいっても、闇市で生活していた人たちもかなりいて、いきなり場所を奪うこともできないため、ただ追い出すんじゃなくて、少しずつ場所を提供して公共の場に移していったようです。その時に東京都が渋谷川の土手上のところに40軒分の土地を用意したのが、現在ののんべい横丁になります。三軒茶屋の三角地帯なども同じ成り立ちで、抽選で当たった人から優先的に場所を選んだそうです。
_上物は、そのときに東京都が用意したものなんですか?
いいえ、用意されたのは場所だけだったため、当初はみんな簡易的に作った小屋みたいな状態でお店を始めたそうです。一軒一軒がもっとぺらぺらの壁でつながっていただけで、言ってしまえば、よくある神社とかの夜店があるじゃないですか。あんな状態だったと思うんです。扉もないところや、葦簀が付いているだけとか……。ただ、のんべい横丁は渋谷東横前飲食街協同組合という大家さんの組合がしっかりしていて、昭和40年ぐらいのときに、組合が東京都から土地を全部買い取っています。だから現在、のんべい横丁の土地はすべて組合のもので、各店舗のオーナーが所有するのはあくまでも上物と営業権だけなんですよ。だから仮に僕が『お店を買います』といって買い取っても、土地は買えないので営業権だけなんです。
「会津」前で撮影。照れながら腕組みに応じてくれた。