アフロマンスを100人育成し、「渋谷発のエンタテイメント」で"世界をハッピーにするムーブメント"を起こしたい。
1985年鹿児島生まれ。京都大学建築学科卒業後、2009年4月に東京の広告会社に入社。社員として勤務の傍ら「アフロマンス」名義でDJやクラブイベントの企画などを数多く手掛ける。2015年、原宿で都内初の「泡パーティー」を開催し、定員250人のスペースに3500人の申し込みが殺到し、SNSを中心に一躍注目を浴びる。その後、街中を巨大スライダーに変える「Slide The City」、夜空に無数のランタンが舞う「The Lantern Fest」、通勤通学前から踊る「早朝フェス」など、新しいムーブメントを起こす人気イベントを次々に仕掛けている。2016年6月に広告会社を退職。Afro&Co.の代表取締役に就任、現在に至る。パーティークリエイター。
http://afroand.co/
「泡パ」や「スライドザシティ」「ランタンフィスト」など、数々の人気イベントを国内で仕掛けるパーティークリエイターのアフロマンスさん。トレードマークは大きくてふわふわの「アフロヘア」、会社名も「Afro&Co.(アフロ・アンド・コー)」と、SNS時代にふさわしくセルフブランディングに余念がない。実は前職が広告会社のプランナーだったという経歴からも、そうした巧さを感じさせなくもない。今回のキーパーソンインタビューでは、次々に新しいエンタテイメントを仕掛けるアフロマンスさんを迎え、もともと趣味だったというイベントを始めた経緯から、SNSで話題を呼ぶ新しいムーブメントのつくり方、さらに今後、渋谷を拠点に実現したい夢に至るまで、じっくりとお話しを聞きました。さっそく、アフロマンスさんの学生時代から振り返っていきましょう―――。
_DJを始めたのは学生の頃からですか?
大学2年ぐらいのときだったと思います。音楽はずっと好きでレコードを買ったり、DJしないのにDJブースが家にあるみたいな(笑)。2000年前後はちょうどヒップホップブームだったんですよ。Zeebra(ジブラ)とか、BUDDHA BRAND(ブッタ・ブランド)、OZROSAURUS(オジロザウルス)、SOUL SCREAM(ソウル・スクリーム)とか、いろいろなラップグループがうわっと出て来てすごく盛り上がって、その影響を受けた世代です。ただ、憧れていただけで、別にDJが何か分かっていたわけじゃなくて。一番始めは、京都市が年1回行っている「大風流(だいふうりゅう)」というカルチャーイベントをお手伝いしたのがきっかけ。その後、京都のDJさんと交流が生まれて「DJブースあるなら、してみなよ」と背中を押され、クラブで回し始めました。
_自らイベントを主催し始めたのも同時期ですか?
最初にイベントを始めたのは、自分がDJをやるためでした。「すみません、そちらのイベントでDJしたいんですが…」とお願いするよりも、自分でやったほうが早いじゃないかと。一般的にオーガナイザーって、そんなに出たがりじゃない人が多いんですが、僕の場合は主催イベントにもかかわらず、いい時間帯に自分が出演したり、わかりやすく出たがりでした(笑)。
_卒業後はそのままDJやイベンターになるわけでもなく、東京で就職したのはなぜですか?
「何で広告を選んだか?」というと、うちのおじいちゃんが画家で、小さい頃からその影響を受けてきたことがあるかもしれません。僕は昔から絵や漫画を描いていて、中学生のときには同人誌を発行して即売会で売っていました。大人の中で中学生がブースを出して売っているみたいな(笑)。高校のときには演劇がやりたくて、脚本を書いて学祭でやったりとか…。大学に入ってからも、僕が通った京大には歴史的にミスコンがなく、「京大初のミスコンを開催しよう!」と仲間と一緒に活動していたのですが、根強い反対派がいまして大論争を巻き起こしてしまったり。その後、京大生向けフリーペーパー「Chot☆Better(チョットベター)」を創刊するなど、「今ないものを作る」みたいなモチベーションがとても強かったです。僕の中ではイベントでも映像でも、それらはあくまで表現手段の一つでしかなくて、自分のやりたいことを就職で絞りたくなかった。広告はいろいろな可能性があるじゃないですか。それこそ仕事で映画を作ることもあるし、お店を作ることだってある、そこに魅力を感じたのが志望理由です。
_アフロマンスさんは本当に才能豊かなんですね。ちなみにトレードマークのアフロヘアは学生時代からですか?
大学2年ぐらいから。もともと大学入学時はアメフト部だったんですよ。始業式にスタジャンを着ていったら、速攻勧誘されまして。アメフトは嫌いじゃなかったんですけど、普通に勉強で入った学生を数年で日本一にするチームなので、アメフト漬けの毎日なんです。学生生活のすべてが、アフメフトで終わってしまうのはどうなんだろうと思い、1年で辞めました。それまで短髪でしたから、退部をきっかけに髪型も自由にしてみようと。腰くらいのドレッドやコーンロウとか、編み込みなどを散々して、最終的にアフロに落ち着いたという感じです。
_アメフト部だったというのは驚きです。短髪からの変遷がすごいですが、就活時、髪型はどうされていたのですか?
就活もアフロで行きました(笑)ただ、入社にあたり社員証の写真を提出する際に、「春からこのアフロとひげで来るのか?」と電話がかかって、さすがに怒られました。仕方がなく、短髪にしてひげ剃って写真を出しました。入社して、1年、2年してほとぼりが冷めたあたりから、徐々に髪を長くしていって、ある日突然アフロに戻してみたいな。もちろん僕が銀行員だったらNGだと思いますけど、広告業界の企画職ですから別に何も言われず。それでも就職して1、2年目は、生意気だ、新人のくせに……、みたいな感じでよく怒られたのですが、それも途中からなくなりました。「出る杭は打たれる」と言いますが、「出過ぎてしまったら打たれない」。僕はプランナーだったのですが、営業担当は僕がこんなやつだと分かっているから、堅い案件なんか持ってこない。むしろ、僕の格好がプラスに働くような面白い案件しか持って来ないので、結果的にうまくフィルターが働いて、好きな仕事をさせてもらえました。
事務所内のDJ卓の前で。内輪の小さなパーティはここでも行うという。
_2012年の「泡パーティー」は大きな話題を集めましたが、当時はまだ会社員だったのですか?
勤務時間外の趣味として「泡パーティー」をやっていました。みんながブログ書いているのと一緒です。以前から色々なイベントをずっとやっていて、その中の一つである「泡パーティー」がすごくバズったみたいな。当時は、個人名のフェイスブックアカウントだったのですけども、やると告知したら、シェアされまくって「いいね!」が2万くらい。キャパシティ250人の原宿のスペースに、参加者申し込みが3,500人という反響があって驚きました。その後、「泡パ」がどんどん大きくなり、企業からもイベントをやりたいという案件が入り始めました。ある大手企業の広告プロモーションでイベントを行ったときには、ヤフーニュースのトップに掲載されてしまい、会社の上層部から「これはお前だろう!お金の流れはどうなっているんだ」みたいな連絡が入ったこともありましたが、うちの母親が社長の会社を立ち上げて、そこで受注していたのでギリギリセーフでした(笑)。先ほどの「出る杭の話」ではないのですが、会社の上層部も僕が嫌いだったら難癖つけて潰せちゃうと思うんですが、世の中に話題を提供にしている活動をポジティブに捉えてもらっていたみたいで、見逃してもらっていました。
_「泡パ」のような企画性の高いイベントを仕掛けるようになったきっかけは?
2017年11月に渋谷100Banchで初開催された「早朝フェス」の様子。通勤・通学前に踊ってテンションを上げる参加者たち。
「普通のクラブイベント」に飽きたからです。音楽は好きだし、クラブも好きだし、イベントで集まって盛り上がる感じも大好きなんですけど、同時にみんながイベントに参加しなくなる気持ちも分かるんです。やっている側もやめていくし。それは、オールナイトがしんどいとか、音楽聴いてお酒飲むだけじゃつまらないとか、いろいろあると思いますけど。でも、みんなカラオケでオールしたり、始発まで居酒屋で飲んだりしてる訳で。クラブや音楽イベントが選ばれなくなる、何かがある。もっと自由な発想で、これを変えないといけないなと。そもそも「DJは何でクラブじゃなきゃいけないのか?」と思い、路面電車を貸し切ってDJパーティーをやったり、銭湯の中で音楽イベントをやったりとか。またオールナイトは 辛いというなら、発想を変えて平日の朝から健康的に踊って出社できる「早朝フェス」を開いたり。みんなが飽きているんだったら、そこに一石を投じたら変わるんじゃないかと考えて、いろいろなイベントを行っています。
_本業の傍ら、アイデアを具現化するバイタリティがすごいですね。
それこそ趣味だからだと思います。商売じゃなくて好きでやっているのに楽しくなかったら、そもそもやっている意味がないでしょう。そのときに打ち手がないなと思ってしまえば、やめると思うのですけれども、幸運なことに広告会社で色々なクリエイティブの刺激を受けていたから、音楽イベントに新しい手法を持ち込んだらどうなるのかなと。泡パーティーも、当時からイビサ島の泡パーティーを知っている人たちはいたわけです。ただ、それを日本でやる人がいなかっただけ。マグロハウスも、マグロの解体ショーと音楽を合わせてやる人がいなかっただけの話なんです。ある業界の中にずっといると、どうしても考えが狭まってしまうというか、新しい情報を受け入れられずにどんどんシュリンクしていく。そういうときに異文化のDNAを入れると、わっと広がると思うんです。
巨大な泡放出マシーンから次々に泡が飛び出し、全身泡まみれで踊る参加者たち。童心に戻って楽しめるクラブイベントとして高い人気を誇る。
_「泡パーティー」はクラブの中だけで完結するイベントなので、比較的に運営管理がしやすいと思います。でも街中で行う「スライドザシティ」の規模になると、場所のこと、安全面のこと、コストのことなど、一人のイベンターが趣味で背負えるリスクではないと思いますが、それを実現には結構ご苦労があったのでは?
いろいろなイベントをやってきましたが、確かに「Slide The City(スライドザシティ)」はどう考えても規模がデカいし、お金もかかる。でも、その当時は、あまり深刻に考えていなくて、とにかく面白いからやろうみたいなノリで。というのも絵空事じゃないというか、スライドザシティはアメリカで運営するテイラーたちが既にやっていたわけですから。あとはそれを国内で実現するために、何をするかということだけ。
_ものすごくポジティブですね。実際に海外から持ってくるときに、ライセンス契約はあったのですか。
アメリカの主催であるテイラーと契約を結んでいます。面白い小話があるんですが、そもそも「このイベントをやろう!」となったタイミングは、ちょうどYouTubeやフェイスブックで「スライドザシティ」の動画がバズった時だったんです。なので、テイラーのところには、日本の大手広告代理店やメディアからもオファーが来ていたんですが、そうした大手企業が競合する中で僕らが契約を勝ち取ることが出来ました。なぜかというと、テイラーたちも僕らと同じような感じだったんです。いわゆる、大企業の戦略的な一コンテンツとかじゃなく、彼らも僕らと同じでやりたいからやっていて「それがビジネスになるといいよね」というスタンスでやっている。簡単にいうと、彼らもベンチャーなんです。「じゃあ、お前に任せた」とノリで決まったのですが、その代わり条件として出されたのが最低その年に5カ所でイベントを開催することとか、来週までに数百万円を振り込めとか。おそらく大手企業は稟議も通さずに来週末までにお金が振り込めるわけがないだろうから。その点、僕らは決断を早く進められたのが大きかったと思います。
_そういうフットワークの軽さが決め手になったわけですね。確か、当初は「スライドザシティ」を渋谷の街でやるという案がありましたよね?
道玄坂で考えていました。今でもやろうと思っています。諦めていません。当時、色々な関係者と会話して「おもしろい」となったのですが、実現には至りませんでした。最終的に必要なのは大義です。「なぜ、渋谷でやらなくてはいけないのか?」という誰もが納得できるストーリーが必要です。企業も行政も話をすれば、みんな楽しいことがしたい。「スライドザシティがしたいか、したくないか」と言われたら、したいのです。本音をいえば、僕は理屈で物事をやらないほうがいいと思っています。何か好きとか、何かやりたいみたいなことが大事で、そこに理屈なんかいらない。そういう理屈じゃないものを実現するための手段として、理屈は大事だし、必要だと思います。その主従が逆になってはいけない。
2015年、お台場で初開催した「スライド・ザ・シティ」。人気が殺到し、1万枚のチケットがすぐに完売したという。