#シブラバ?渋谷で働く、遊ぶ、暮らす魅力を探る

KEYPERSON

街や建物は器であり、カルチャーは人がつくる。魅力的な人びとが集う渋谷であり続けてほしい。

スタイリスト高橋靖子さん

プロフィール

1941年、茨城県生まれ。日本スタイリスト界の草分け的存在。早稲田大学卒業後、電通に入社するも、程なくして原宿セントラルアパートにあった広告制作会社に転職。その後、独立してフリーランスのスタイリストとして活動を開始した。山本寛斎のロンドンでのファッションショーを成功させたほか、デヴィッド・ボウイやT・レックスのフォトセッションをサポートしたり、忌野清志郎、矢沢永吉、YMOなどの衣装を担当したりと多方面で活躍。著書に『時をかけるヤッコさん』(文藝春秋)、『表参道のヤッコさん』(河出書房新社)など。

1960年代からフリーランスのスタイリストとして活動し、今なお第一線で活躍を続ける、「ヤッコさん」こと高橋靖子さん。スタイリストという職種が日本で認知される以前から活動を開始し、デヴィッド・ボウイやT・レックス、忌野清志郎、布袋寅泰など、国内外の大物ミュージシャンやアクターとの親交を温め、歴史に残る仕事を成し遂げてきました。そのヤッコさんが表参道を拠点とした約半世紀にわたる活動の軌跡を振り返るとともに、これからのカルチャーを担う若いクリエイターにメッセージを送ります。

気がついたら、スタイリストになっていた。

_大学卒業後に電通に入社したものの、すぐに退社されてしまったとか。

私の学生時代は、女子が就職するのは今よりずっと大変だった頃。それでも何かやりたいという気持ちがあって、久保田宣伝研究所(現在の宣伝会議社)のコピーライター養成所に通いました。その時の講師が電通のコピーライターだった縁から大学卒業後に電通に入社したのですが……、8か月で辞めてしまいました。その頃、原宿セントラルアパートに入っていたレマンという広告制作会社に知り合いがいて、週末によく遊びに行っていたのですが、パーティーで「ヤッコさんも、うちに来れば?」と誘われ、そっちに移ることにしたのです。誘ってくれた当人は酔っていたのか、「あ、そうだっけ?」なんて感じでしたけど(笑)。まあ、60年代とはそんな時代でした。

転職にはっきりとした理由はありませんでしたし、レマンで「これをやろう」という考えもありませんでした。そもそも、自分の力で生きていくことに対し、まだ自信を持てませんでしたし。ただ、「何かやらなきゃ」という思いだけがありました。今振り返ると、大きくて何をしているのか分からない会社より、気心の知れたメンバーで楽しくやっていそうな雰囲気に惹かれたということなのでしょう。

_レマンではどのような仕事をされていたのでしょうか。

原宿セントラルアパート1Fにあった喫茶店「レオン」(1977年頃)

レマンは小さな会社でしたが、とても素敵なところでした。みんなとても仲が良く、私がコピーを書けずに悩んでいると、先輩がこっそりと手伝ってくれました。自分がやれることをやらなきゃと思い、朝早く出社して掃除をしていると、アートディレクターの先輩が気持ちの良いクラシックの曲をかけてくれたり、夜はみんなでお酒を飲んでツイストを踊ったり……。当時のセントラルアパートにはクリエイターが集い、広告制作会社や編集事務所、スタジオなどがたくさん入っていました。その1階にあったのがレオンという喫茶店で、そこに入り浸っては「広告の世界を乗っ取ろう」なんて夢みたいな話をしたものです。やっている仕事は地味なものでしたけどね。

もともとはコピーの仕事をしていましたが、私は文章を書くのがとにかく好きじゃなくて。小さな会社でしたから、撮影の時に「これを用意して」なんて言われて、洋服や備品を探して駆け回ることもよくありました。そういう時に「気が利くね」と褒められることが不思議と多かったんです。コピーは全然だったのに(笑)。そんなことを2、3年くらい続け、フリーランスになった時は、コピーライターとも、スタイリストとも名乗りませんでした。まだ名乗るほどの実績はありませんでしたから。その後は、スタイリストとしての仕事をいただくことが多く、「気がついたら、スタイリストになっていた」という感じでした。

左)ソファに座っているヤッコさん。「60年代の後半。セントラルアパートの浅井慎平さんの事務所にて。浅井さんのご好意で、フリーランスになったばかりの私の電話を置かせていただいた」(高橋)。 右上)「1970年、レナウンイエイエ。CMはすごく人気がありました。手前の女性は、これがデビューのキャシー中島。スタイリングでは、ニューヨークから持ちかえった私の私物が活躍」(高橋) 右下)ピンクドラゴンの仲間たち。「私の左の男性が山崎眞行さん。原宿にキングコングという店を作り、遂にはお城のような『ピンクドラゴン』をつくりました」(高橋)。 写真提供=高橋靖子

T・レックスやデヴィッド・ボウイとのフォトセッションを実現。

_スタイリストとして生きていくという覚悟を持つ、きっかけとなったできごとはあるのでしょうか。

スタイリストの仕事をしていく上で大きな影響を受けたのは、1969年に40日間ほどニューヨークで修業をしたことです。英語はろくにできませんでしたが、DDB(ドイル・デーン・バーンバック)という、クリエイティブな広告代理店のスタイリングディビジョンのスタイリストに連日くっついて歩き、その仕事ぶりをつぶさに観察しました。この経験を通して感じたのは、私は私なりのやり方を通しても良いのだということ。渡米前は、「海外ではもっと立派な仕事をしているのでは」といった根拠のない考えもありましたが、実際に現場を目の当たりにして、自分が目指していること、やろうとしていることは間違っていないという自信を持つことができたのです。

_T・レックスやデヴィッド・ボウイといった超大物ミュージシャンとは、どのような経緯でお仕事をされたのでしょうか。

ファッションデザイナーの山本寛斎さんがロンドンでファッションショーをするお手伝いをしたことがあり、現地に知り合いができました。その後、カメラマンの鋤田正義さんにT・レックスを撮影したいと言われ、ロンドンのつてを辿ってT・レックスの事務所に連絡し、「撮らせてほしい」とお願いしたんです。すると驚くことに、鋤田さんのシュールな作品が気に入られて、その場でOKをもらえたのです。デヴィッド・ボウイも同じような感じ。鋤田さんとロンドンをうろうろしていたら、とても素敵な人のポスターを見つけて、そのとき初めてデヴィッド・ボウイを知ったんです。私も鋤田さんも一目ぼれして「絶対に撮らせてもらおう」と。それでレコード会社を調べて電話したら事務所に来いと言われ、鋤田さんの作品を見せたら、やっぱりOKでした。T・レックスやデヴィッド・ボウイの撮影では、もちろん私はスタイリストとして思い切り仕事をさせてもらいました!

_スタイリストでありながら、プロデューサーのような仕事もされていますね。そんな大きな仕事を成功させられた秘訣は何だったのでしょうか。

スタイリストとしての表現の仕方は、時代とともに大きく変わりました。一般にはスタイリストというと衣装を用意する仕事を思い浮かべると思いますが、当時はまだ職業として確立されていないこともあり、人と人を結び付けるような面も大きかったと思います。また、当時は今よりストレートに勝負できたという面はありました。今の時代、海外の大物ミュージシャンの事務所に直接電話しても、なかなか取り次いでもらえませんよね。ただ、時代によって表現の仕方が違うとしても、飽くなき好奇心は大事だと思います。何かしら隙間はありますから、やる前から無理とは思わないほうがいい。私だって、できるとかできないとか、そんなことは一切考えてなくて、「これが実現したら死んでもいい」というくらい必死でした。それからT・レックスやデヴィッド・ボウイとのフォトセッションが実現したのは、当時の私が若くて可愛かったからでしょうね(笑)。だって、そんな女の子がはるばる日本からやって来てお願いされたら、普通、断れないじゃないですか(笑)。

2017年1月14日〜2月12日、新宿・ビームス ジャパンで回顧展「YACCO SHOW」が開催された。会場壁面には、ヤッコさんの50年間の活動を振り返る写真が数多く掲出。写真を通して、大物ミュージシャンたちから慕われるヤッコさんの人柄の良さがうかがえる。

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