500年ぶりの古式弓術神事「御的」の復活で、渋谷に溢れる人の妬み、嫉み、恨みなどの悪縁を祓う
神奈川県横浜市出身。澁谷光重(秩父光重)。村岡秩父家 41世家督で、澁谷本嫡宗家(澁谷屋形)36代屋形。平安時代末期の1092年(寛治6年)、「澁谷」を初めて名乗った河崎基家(澁谷基家)により、「渋谷城」(本丸は現在の金王八幡宮)を築城。戦国時代に落城するまで、渋谷の地を治める。澁谷家の跡継ぎである光重さんは、澁谷流弓馬礼相伝 (弓術・馬術・諸礼)、武田流/大坪流馬術など、武道や武家教育を幼少期から学ぶ。現在は、武家文化などを伝える「澁谷流奉崇会(ほうすうかい)」を立ち上げ、講座や体験教室、神事などを通して「日本の伝統文化」や「日本人らしさ」を現代に伝えている。澁谷流奉崇会会長。
渋谷は、戦後に生まれた「新しいまち」だと思っている方もきっと多いだろう。実は渋谷が「渋谷」と世に認識され始めたのは、今から約1,000年前の「渋谷城」の築城から。大山道と鎌倉街道の2つの街道が交差し、目黒川と渋谷川の2つの川から物資が集まる渋谷は、結節点として重要な役割を担っていたという。今回のキーパーソンインタビューでは、「渋谷城」を築いた澁谷基家公の血をひく、澁谷本嫡宗家(澁谷屋形)36代屋形の澁谷光重さんを迎え、澁谷家の成り立ちから今日繁栄を遂げた渋谷が持つ霊力に至るまで、渋谷のまちの歴史をひも解く。また今春、500年ぶりに金王八幡宮で復活した古式弓術神事「御的(おまと)」を終えた感想や、神事が持つ意味などについてもじっくりとお話を聞きました。さて、1,000年前の渋谷は一体どんな場所だったのでしょう――。
_澁谷さんは宗家として何代目になるのですか?
ちょっと複雑ですが、ご説明します。私たちは武蔵国秩父郡(埼玉県秩父市)をルーツとする村岡秩父家(むらおかちちぶけ)で、その家督(跡目をつぐ者)の初代が平良文(たいらのよしぶみ)と言います。良文公は、皆さんご存知の平将門(たいらのまさかど)の叔父さんにあたります。一般的に澁谷家は源家の御家人というイメージが強いのですが、もともとは平家の血なんですね。ですから、良文公を初代として、代々継承する家督を数えると41世。さらに専門的なのですが、途中で畠山と澁谷という家に分かれまして、我々の家号が「渋谷屋形」といい、「澁谷」を初めて名乗った基家(もといえ)公から数えると36代目となります。
_澁谷家と渋谷との関係を教えてください。そもそも戦に貢献し、その武功で渋谷を領地として得たのでしょうか。
それが全く違うんです。家伝では先ほどもお話したとおり、祖は秩父におりまして各地に所領を持っていたんです。たとえば、基家公は元服したときに初冠(ういかん)といい、初めての冠を得るわけですが、そのときに親からもらったのが河崎領(現在の川崎市周辺)。その後、小机領(現在の横浜線・小机駅周辺)を得て、小机と名乗り。一旦、京都へ移動していましたが、武功を上げて関東に戻り、港の整備など公共事業で権益を得ていました。こうした中で基家公は、先祖代々継承してきた土地であり、また度々戦の勝利を導くなど幸運な土地である渋谷郷に築城したと。そのとき、初めて「澁谷」と名乗ったと聞いています。
_渋谷は幸運を導く土地だったのですね。
そうです。良文公の孫にあたる将恒(まさつね)公は当時、関東一の武将と言われていて、朝廷の命により関東の兵を集め率い大乱を治めました。そのときに本拠地として軍を敷いていたのが渋谷です。その後、大戦(おおいくさ)に勝ったことから、当時一躍、日本中で渋谷の名が有名になりまして。武士は縁起を担ぐため、東北地方を舞台とした「後三年の役」(1083 - 1087)の戦ときにも源義家(みなもとのよしいえ)は、それを真似して渋谷で兵を集めています。さらに頼朝(よりとも)が奥州征伐を行うときにも。
_当時、渋谷城が治めていた領地は現在のどのあたりでしょうか?
渋谷区と港区のほぼ全部です。当時、渋谷は「谷盛(やもり)」という地名で呼ばれていて、現在でも「いもり川」という川があるのをご存知でしょうか? 青山学院大学の辺りから恵比寿付近で渋谷川と合流している川ですが、その「いもり川」の名称の由来は、そもそもの「谷盛川(やもりがわ)」が訛って、そうなったと(笑)。実はその川が渋谷城の城内と城外を分ける境目となっていたんです。
_城と聞くと天守閣や城壁があって、周りにお堀があるというイメージですけど、当時の城はどういったものだったのでしょうか
城というのは、厳密にいうと敷地のことなんです。現在の普通の家でも、敷地と家屋って違いますよね。天守閣とか館は城内に建つ一部の家屋のことで、敷地全体と捉えるのが本来の城。我が家に残っている記録によれば、渋谷城は室町時代に最盛期を迎え、そのときは外堀が目黒川、そして内堀に当たるのが渋谷川。その間の代官山は「代官」という文字の通り大名の家来という意味ですから「家臣のまち」。さらに金王八幡宮があるこの辺りの山がいわゆる本丸で、青山のほうまで続く長細い、かなり大きな城だったと。我が家は他にも早川城(神奈川県綾瀬市)という大きな城を有してましたが、最盛期の渋谷城はそれよりも大きかったそうです。戦国時代や江戸時代の城下町とは違いますけれども、武家屋敷や商業施設が整い、家臣の中には商人兼武士がいたり、関東では珍しい中世型の城下町として発展。今の渋谷駅の辺りには、かなり民家もあったといいます。
_谷底地形で、周囲に川が流れている。さらに鎌倉まで街道が真っ直ぐ伸びているという点で、渋谷城はとても好立地な場所だったのでしょうね。
1,000年前から渋谷は開けていて、風光明媚な場所として有名だったと。緑があふれ、水が豊富で花が咲き、海も富士山も見える「桃源郷」と呼ばれていたというんですね。もう一つの側面は、大山道と鎌倉街道の二つの街道が交差するまち、交差点です。うちが主に河川を整備したのですが、目黒川を下れば品川湊に出られ、渋谷川を下れば日比谷湊に出られる。二つの港と二つの街道から集まる物資で市が開かれて、大変賑わっていたといいます。もう一つ伝わっているのは非常に霊力が強く、パワースポットだったということ。ですから、澁谷家も本拠地にして実際に栄えましたし、今日の渋谷が栄えているのも同じ。東急さんをはじめ、さまざまな企業が誕生したというのもあながち偶然ではないと思います。人間は動物ですから、本能的に何か感じると思うんです。だから多くの人びとが集まってくるんじゃないですか(笑)。
_金王八幡宮の名の由来として知られる「澁谷金王丸」について教えてください。「平家物語」「源平盛衰記」「吾妻鏡」などでも描かれ、ヒーローとして語り継がれる金王丸ですが、光重さんが知っている金王丸とはどんな人物だったのでしょうか?
史実と言いますか、我が家では金王丸は特定の人物ではなく、代々の長男の幼名なんです。澁谷家の惣領(跡取り)、生まれながらに家を継ぐと決まっている子どもに「金王丸」という名前を付け、そう呼んでいました。ですから、何人もいるんですよ(笑)。実際は誰のことを指しているのかは、分かりません。伝説の数々のどこまでが本当のことなのかも分かりません。
_誰が金王丸か不明にも関わらず、これほど愛されヒーロー化されたのは、なぜでしょうか。
中世から人気はありましたけど、一世を風靡したのは、江戸時代の歌舞伎から。歌舞伎十八番の「暫」(しばらく)、現在では主人公が鎌倉権五郎(かまくらごんごろう)だけですけど、江戸時代は権五郎と金王丸の二人だったんです。特に江戸では渋谷が近郊だったため、金王丸の人気が非常に高かった。ですから歌舞伎人気にあやかって、もともと「渋谷八幡宮」という名称だった神社を「金王八幡宮」に変えるほどだったと。あと氷川神社の当時有名だった相撲が「金王相撲」と呼ばれているのも、やっぱり歌舞伎の影響です。なぜ人気かと言うと、日本人が好きな典型的な人物なんですね。現在でいえば、中学生ぐらいの少年ながら、勇敢で、誠実で、人情深いこと。さらに日本人が大好きな源義経(みなもとのよしつね)との関係やエピソードともつながっているなど、歌舞伎の題材としてもってこいだったわけですね。ただ、それが一転して消えたのが明治時代に入ってから。その理由は、金王丸が源頼朝(みなもとのよりとも)の父親・義朝(よしとも)の家臣だったという設定であったため。義朝は朝敵ですから、明治時代に朝敵の家臣をヒーローにするのはどうだろう、という風潮があったと聞いています。
_こうやって歴史を聞いていると、伝承や伝説が多くて、何が正しいか否かは誰にも分かりませんね。
おっしゃるとおりです。現代人は歴史を学問と捉えますけど、我々武家では歴史というのは、先祖に対するある種の信仰なんです。だから古事記でも日本書紀でも全て真実というわけではないです。もちろんそこに真実も含まれていますけど、原点は先祖に対する信仰みたいなものですから。
もともと澁谷城の居城があった金王八幡宮
_光重さんのお住まいは横浜とのことなんですけど、実際に澁谷家一族が渋谷を領地としていたのはいつまでですか?
戦国時代です。渋谷城が落城した後、渋谷城を支えていた城の一つである大宮城(杉並区・大宮八幡宮)のふもとにある古い館に移りまして、大正時代までそこにいました。その後、暮らしていた館は手放したのですが、今も杉並区堀ノ内には敷地がそのままそっくり、残っているんです。中世の風情を今なお感じられる場所です。その後、祖父が会社を経営していまして、深川に一時期いたことがあり、そこで東京大空襲に遭遇。また横浜でもいろいろ仕事をやっていたので、父の代から横浜に移りました。
_落城し家を転々とする過程の中で、武家の文化とか歴史とか、伝統はどういうかたちで、現在まで引き継いできたのでしょうか
よく言うんですけど、父はサラリーマンですし、全く一般家庭と何ら変わりない家なんです。ただ、ちょっと変わっているのが、武家教育です。武家教育の基本は何かと言うと、物語なんです。昔こういう武士がいたとか、こういうことがあったというのをただひたすらに聞かされます。要するに昔話なんです。昔話って教訓めいたことってあまり言いませんが、最後は「何とかだったそうな」で終わり、それを子どもが聞いて自然と武士像というものを感じていく。これは日本文化の特徴だと思うんです。それから我が家では年中行事をきっちりやります。例えば、弓に関する行事だけでも年間10回以上もあります。武家教育や武家礼法と聞くと、礼儀正しく、厳しいという印象ばかりを与えてしまいがちですが、基本は「親切」ということなんです。現代人からするとびっくりするぐらい親切で、これが今日の「おもてなし文化」の原型だと思うんです。
_中世武士の「おもてなし」とは、具体的にはどんなものだったのですか?
難しい用語で饗設け(あるじもうけ)と言いますけど。通称、主設け(あるじもうけ)とも書きます。もともとは神様に対してやっていたものを大事なお客だとか、大事な家族だとか、友人、ひいては家臣にやるようになったのがもてなしの始まり。偉い人だけではなく、家臣にもものすごく手厚くおもてなしをするのが武士の礼法の一つ。それから、なんでも手間をかけます。だから豪華な食材でご馳走するのではなく、主が自ら捕ってきた魚や鳥を自分で指示して料理させて、自分で運んで「さあ、どうぞ」と。これなんですね。
_どちらかというと、現在では下の者が上におもてなする。いわば、ごますりみたいなところがありますが、昔は違ったのですね。
一番重要なのは「型」ではなく、「中身」なんです。よく伝統文化が大事だと皆さん言いますけども、じゃあ、なぜ大事なんだという話なんです。それは民族の遺産だからではなく、私が思うに伝統文化というのは民族の価値観、DNAそのものなんだと思います。日本人は一朝一夕に日本人になったのではなく、縄文時代から何万年もかけて日本人になっていますから、伝統文化はその記録。だから大事なんです。一方で、日本人は新しいものが好きだから、どんどん新しいことはやるべきだと思うんです。でも、新しいことをやると時々我を見失ったり、おかしな方向に行きがちですよね。そういうときは立ち止まって修正すればいい。でも修正するには基本が分からなければ、修正できませんよね。そういうとき伝統文化に触れると「ああそうだったんだ」と気づけることがあります。