ハチ公には、人々に愛情や信頼の大切さを伝えながら
変わり行く渋谷の街を永遠に見守ってほしい。
1923年(大正12年)、東京・渋谷生まれ。父親は、初代ハチ公を制作した彫刻家の安藤照。東京美術学校(現在の東京藝術大学)卒業。現在渋谷駅前に設置されている2代目ハチ公のほか、「希望の少年像」(浦和市立岸中学校)、「平田靱負翁像」(鹿児島県鹿児島市平之町平田公園)など、多数の作品がある。自由美術会員。ウインドウディスプレイなどを手がける現代工房の代表取締役社長も務める。
日本で一番有名な待ち合わせスポットと聞かれれば、「渋谷駅で亡き主人を待ち続けた」という美談で知られる「忠犬ハチ公像」を思い浮かべることだろう。国内のみならず、海外からの観光客にも「HACHI」人気は高く、東京観光を代表する観光スポットとして知られる。実は現在の「ハチ公像」が、戦後に造られた2代目なのをご存知だろうか? 戦時中の金属類回収令で「初代ハチ公像」は強制供出され消失し、新しいハチ公像は1947(昭和22)年に再建。2代目の制作は、初代ハチ公像を手がけた彫刻家・安藤照さんの意志を受け継ぎ、その息子である士さんの手で造られたものだ。今回のキーパーソンでは、親子2代にわたってハチ公像の制作に携わってきた彫刻家・安藤士さんを迎え、生前のハチ公の姿や性格、ハチ公像の再建に至るまでのエピソードなどを含め、たっぷりと語っていただきました。さてハチとは、一体どんな犬だったのでしょうか。
_彫刻家だったお父様が初代のハチ公を制作することになった経緯をお話ください。
あるとき、父が日本犬を作ろうと思い立ち、美術学校の先輩で、日本犬保存会の会長だった斉藤弘吉先生に相談したんです。斉藤先生は、それだったら、渋谷駅前に立派な日本犬がいるからモデルにしてみないかと。父もハチを見て大いに気に入り、代々木のアトリエに連れて来て貰って制作に取りかかりました。作品は展覧会に出展し、上野の美術館に展示され、なかなか評判だったようです。やがてハチ公の人気が高まるにつれて、渋谷駅長が「ずっとご主人の帰りを待ち続けているハチの銅像を駅前に永遠に残してあげようじゃないか」と発案し、父も快諾して最初のハチ公が建てられました。除幕式には、ハチ自身も参加しました。私もその場にいましたが、銅像の横に、「なんで、こんなに人が集まっているのだろう」とでも言いたげな表情でキョトンとして座っていたことを覚えています。
_生前のハチのことは、ご記憶にありますか。
もちろん、よく覚えていますよ。アトリエで随分と可愛がっていましたからね。なんだか今でも、「おい、ハチ!」と呼んだら、私の足もとにノコノコとゆっくり歩いてくるような気がします。ハチは大きくて立派な日本犬で、とても優しい目つきをしていてね。賢い犬だったと思いますが、利口ぶったところはなく、大人しくて人懐っこかったですよ。それでいて、「おれは、ここにいるぞ」というような存在感の強さがありましたね。作品の完成後も渋谷駅前を通るたびに、「元気でやっているか?」と、しょっちゅう撫でていましたよ。ハチは、以前は野良犬だと思われていて、蹴られたり邪険にされたりしていましたが、昭和7年に朝日新聞でその境遇が報道されてからは、皆から可愛がられるようになりました。ハチとしては、どういう気持ちだったのでしょうね。
_安藤さんが2代目ハチ公を制作することになるまでをお話ください。
皇室献上のために数体造られた「伏せたハチ公」。写真の小型銅像は、戦災で安藤邸が焼失し、その焼け跡から見つかったもので前足が欠損している。
私は、現在の住まいとアトリエがある場所(代々木)で生まれ育ちました。大正12年生まれで、ハチと同い年なんです。ただ、戸籍上では12年なのですが、実を言うと私は大正11年生まれなんです。ちょうど年末で父が役所の届出を面倒くさがって、年を越してからの提出となって1歳若くなったという事情があるのですが……。まあ、そういう時代だったということですね(笑)。アトリエの中で生まれたそうで、幼い頃から父の制作の手伝いをしていましたから、自分も彫刻家になるというのは自然な成り行きでしたね。美術学校に通い、展覧会に入選するなど、彫刻家として歩き始めた頃、戦争に突入して兵隊として駆り出されました。いわゆる学徒出陣です。戦後の1945年10月に復員して帰宅したら、辺り一面、ただただ黒一色の焼け野原で、家もアトリエも灰になっていました。5月25日の空襲がとにかく凄まじかったようです。今もアトリエの前に防空壕の跡が残っていますが、父は近所の方たちとともに、その中で焼死してしまいました。呆然と立ち尽くし、「これから、どうしたらいいんだろうか」と途方に暮れましたが、ふと地面に粘土を埋めてあるのではないかと思い、掘り返してみたのです。そこには粘土が残っていて、「これさえあれば、何でも作れる」、そう思い、バラック小屋を建てて再び彫刻を始めました。戦争から帰ってきたら、父が作った駅前のハチ公もいなくなっていました。戦時中は、弾丸などに使うために金属が回収されており、ハチ公も拠出されてしまったのです。今考えると本当に馬鹿馬鹿しいことですけど、女性の指輪まで持っていかれる時代だったんですよ。その後、徐々に復興が進むうちに、どこからともなく、渋谷にはハチ公がいないと調子が出ないという声が上がりました。それで再建する話が持ち上がり、日本犬保存会の会長の斉藤先生が、私が父の後を継いで彫刻をやっているし、ハチを可愛がっていたのだからと指名してくださったのです。
_2代目ハチ公を作ることになり、どのようなお気持ちでしたか。
それはもう嬉しかったですよ。本当に可愛がっていた犬でしたから。「ハチ、俺はお前を作るぞ!」と、奮い立ちましたね。父が初代を作った作品を改めて作らせてもらえるということも大きな喜びでした。初代の原型は焼けてしまっていましたし、資料も記録も何もない状態でしたが、「ハチ公を作れ」と言われたときには、既に頭の中で完成図ができ上がっていました。それくらい強い印象を持っていて、本当に何もない状態で、パッと作れたのです。完成後、斉藤先生も、「よく記憶だけで、ここまで……」と驚いてくださいました。ただね、材料不足にはとても悩まされました。戦後の何もない時代ですから鋳物屋に相談しても銅がないと言われ、銅製のやかんや洗面器を必死に集めてくれたけど、到底足りない。除幕式は「終戦記念日にしよう!」と先に決まっていましたから、スケジュールが迫ってくる中でどうしようかと焦りました。そんなとき、父が制作した女性の立像が、焼け爛れて瓦礫に埋まっていることを思い出したのです。これは、モダンダンサーとして有名だった宮操子さんをモデルにした作品で、鹿児島の旧大名、島津家の庭に飾られていたものでしたが、拠出を逃れるために制作者の父のもとに送り返されていたんです。私はこれを見つけた瞬間に「これだ!親父、もらうぞ」って。急いで大八車に乗せて鋳物屋に持って行ったら「これは良質な銅だ」ということで、この女性像を材料に使わせてもらい、なんとか時間ぎりぎりで完成させました。ちなみに、宮さんは、私が赤子の頃から可愛がってくださった方で、私は「みーちゃん」と呼んでいました。もうお亡くなりになっていますが、2代目ハチ公は、宮さんをモデルとした作品から生まれ変わりましたから、今もハチ公を見ると「みーちゃん、元気?」と話しかけてしまいます。
父親・照さんの時代から代々木にアトリエ兼自宅を構えている。昭和8年ごろ、ハチ公は父親の銅像制作のモデルを務めるため、毎日のようにアトリエを訪れていたそうだ。当時、小学生だった士さんはハチ公と遊んだりするなど、よく世話をしたという。