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KEY PERSON キーパーソンが語る渋谷の未来

渋谷を中心に活躍する【キーパーソン】のロングインタビュー。彼らの言葉を通じて「渋谷の魅力」を発信します。

プロフィール

1951年、渋谷の弘法大師ゆかりの浴場「弘法湯」に生まれる。聖ヶ丘幼稚園、大向小学校、松濤中学校で学び、地元・渋谷で多感な子ども時代を過ごす。日本大学芸術学部、東京写真専門学院を卒業後、カメラアシスタントを経て、商業写真を中心とした編集プロダクションに就職。父が亡くなったのを機に34歳でフリーに転身。「弘法湯」のあった神泉駅前にビルを建て、1階で喫茶店「カフェ・ド・ラ・フォンテーヌ」を経営する。日本写真協会会員。現在、渋谷区企画部文化振興課文化総合センター大和田コスモプラネタリウム渋谷の企画・広報、渋谷区郷土資料デジタル化保存推進準備室室長として渋谷区の仕事にも携わる。

かつて料理屋、待合茶屋、芸妓置屋が数多く軒を連ね、隆盛を誇った神泉・円山町。その花街の中心で、弘法大師ゆかりの浴場「弘法湯」に生まれた佐藤豊さん。多感な子ども時代を過ごした弘法湯でのエピソードから、東京オリンピックを境に大変貌を遂げた都市の姿や、これからの渋谷の大規模開発の行方に至まで。さらには今春には刊行を予定する写真集「渋谷の記憶IV」を控え、古い渋谷の写真を「デジタル化保存」する取り組みの重要性などについてじっくりとお話を聞きました。

僕は「弘法湯」に生まれ「ねえや」が2人いる、いいとこの子でした(笑)

--ご出身は渋谷ですか?

生まれ育ちも渋谷です。神泉駅前のこの場所にはもともと「弘法湯」というお風呂屋があり、僕はそこに生まれました。弘法大師ゆかりの浴場で、昔は村が共同で弘法湯にあった姫ヶ井の井戸から湧き出ていた霊水を沸かし共同浴場を運営していました。地域からの要望があり誰か弘法湯の運営を引き受けてもらえないかという話が起こり、僕の曾お爺さんが営業権を買い取り引き受けることになったそうです。ちょうど国鉄(JR)が渋谷駅を開業した明治18年のことです。

--昔、渋谷や神泉はどんな街だったのでしょうか?

江戸時代には今の明治通りあたりが江戸市中と郊外を分ける朱引線となるあたりだったようで、渋谷も神泉も郊外、田舎でした。ただ道玄坂上の交番から1本右に入った滝坂道は大山街道の中で、大山詣、富士詣の通り道として大変栄えていて。昔も神泉谷(駅前)を通って三宿へ抜ける行き帰りには、一休みに、お風呂に立ち寄る人も多かったといいます。それに道玄坂も宮益坂も坂でしょ。大八車や馬車に沢山荷物を乗せると重くて上がれない。ですから現在の渋谷駅のあたりには、馬の水飲み場や人夫が坂を上るのに、苦労をしている車を見つけては手伝い、小銭を稼いだりする人や、馬車に乗せ世田谷方面から野菜を市中の市場に持って行った帰りに、お土産・日用品を買う人たちに物を売る店があったりと、昔から渋谷駅のあたりは、ある意味では中継基地として賑わっていたようですね。

--佐藤さんは、どんな子ども時代を過ごしたのですか?当時の弘法湯の様子も併せて教えてください。

明治40年ごろの弘法湯 写真提供:佐藤豊

戦前から共同浴場「弘法湯」は現在の神泉駅の側にあり、隣接地に弘法湯が経営する料亭「神泉館」がありました。神泉館の庭には大きな池がありました。また「弘法湯」は地域で一番大きなお風呂屋でした。戦後、私の子供時代にも弘法湯にはたくさん若い女性のお手伝さんたちがいて、私にも「ねえや」が2人付いていました。「いいとこの子」てな感じでしたね(笑)。一方、円山町界隈は花街でしたから芸者さんもいるし、周りには、ちょっと怪しいような大人の人がいたりして、毎日が面白い。今で言う「刺激的」そんな環境で育ちました。小学校、中学校も地元だったので、それまで特にお風呂屋を意識したことはなかったですが、高校時代に友だちが泊まりに来たときには、随分驚いていましたね。友だちが遊びに来ると、一般のお客さんとは別の裏口からお風呂へ行くんのですが、そこには番頭さんが浴室の混み具合を覗いて、お湯の温度を調整するための窓が空いてるんですよ。それを見ちゃった友だちが学校で言いふらしちゃって、たいして親しくない同級生まで泊まりに来るような事があって、年中友だちが入れ替わりで来るんですよ(笑)。しまいには番頭さんから「いい加減にして下さい!」と、のぞき窓を紙で塞がれちゃったりして。私にとってお風呂屋は日常の世界なのですが周りからは夢のような世界だったみたいで、学校では結構人気者でした(笑)。

--渋谷周辺にも銭湯が多かった?

昔はある一定の距離ごとに必ず一つは銭湯があって、渋谷周辺にもお風呂屋さんは少なくありませんでした。昔は一定期間働いた従業員へは退職金代わりに、風呂屋を建てる援助をしてあげることがあったそうです。まあ、のれん分けみたいな感じでしょうか。先祖の実家が越後だったので、そんな関係から番頭さんや女中さんの仕事を地元から募ることが多く。また社内結婚みたいに番頭さんと女中さんが結婚することも珍しくなかったようです。東京のお風呂屋さんは越後出身の夫婦が結構多いようですよ。当時はとにかくどんどん住宅が増えて、人が集まればお風呂屋が必要な時代だったのでしょう。

--1979年に「弘法湯」を閉じたのはどうしてですか?

現在も井の頭線・神泉駅前に残る「弘法大師 右神泉湯道」と刻まれた石碑(1886年建立)

お風呂屋なのに風呂付きアパートの経営を始めたくらいで、時代と共に銭湯の需要がなくなってきたことが大きいです。燃料代、人手など何かとお風呂屋は維持費もかかるので、需要が無いなら辞めるしかない。現場は結構ドライに考えるしかなかったようです。周囲は意外にノスタルジックなようで、日頃、そんなに弘法湯を利用しないのに「もったいない」といって(笑)。カメラマンという職業柄かな、私もそれほど悲しいとかは感じなかったけど。ノスタルジーばかりを感じていたら、写真は撮れないと思いますがどうでしょう。逆かな?私の場合は写真を撮って画像とし残すため、あまり未練が湧かないのでしょうか?

写真集「渋谷の記憶」―広告や服飾、文化、建物などの研究ができるネタ元として活用してもらえれば

--そもそもお風呂屋ではなく、カメラマンになったのは?

もともと父が写真好きで、子どもの頃からカメラや写真が身近にあって慣れ親しんでいたからでしょうか。本当は物書きになりたかったんですが、文才は自分なりには努力はしてみたのですが残念ながらなかったですね。僕が学生時代はちょうど、ニクソンショック、オイルショック、就職難と重なり、何か少しでも好きな事で手に職を付けた方が良いという先生の勧めもあって。学校卒業後、アシスタントを経て広告写真の制作プロダクションに就職し、34歳でフリーになるまで、商品パンフレットや雑誌などの商業写真を中心に撮影の仕事をしていました。今思えば、毎日とにかく忙しかったですね。

--渋谷の今昔を記録した写真集「渋谷の記憶」を作ろう、と考えたきっかけは?

渋谷区の仕事で渋谷の旧町名を調べ始めたのがきっかけです。たとえば、電車の駅名で「原宿」と言うのがありますよね。でも町名には原宿はなくて、今はあの辺りの町名すべて神宮前なんですよ。ところが今、原宿で若い人が集まる「竹下通り」ってあるでしょ。あそこは、昔の町名では「竹の下」と呼ばれていた場所で、通りの名前で旧町名が残っているんですよ。そんな渋谷に残る旧町名を色々と紹介するときに、町名情報だけでは分かりづらいと思い、古い写真と新しい写真を組み合わせて説明するようにしました。するとそれを見た方から「佐藤さん、古い写真持ってないですか?」という話がくるようになって。以前から父が撮影した写真や、個人的にも収集していた古い渋谷の写真があったので、それに対応する中でだんだんと多くの方から「古い写真が見たい欲しい」と言う要望の声がたくさん聞こえるようになりました。そんなに欲しいという声が多いなら「写真集を作ってあげられないかな〜」と思うようになったわけです。はじめは「本当に売れるの?」と疑問視する声もありましたが、今では増刷増刷で追いつかないくらい!少々オーバーですが(笑)。多くの方に喜んでもらえて本当に良かったです。この写真集は、あくまでも渋谷史のベースになるもの。先ほども言いましたが、この本から色々な形で地元渋谷の歴史に興味を持ってもらえたらいいな、と思っています。例えば街づくりなどに関しても、渋谷はそんなに古い歴史があるわけではありませんが、ノスタルジックな意味で過去を調べるのではなく、街をドライな視点で見てみると何か渋谷の未来が見えてくると思います。この本から色々な切り口として、好奇心が湧いたら昔の広告や服飾、文化、建物などネタは沢山あると思いますので、面白く研究もできるでしょう。僕はその好奇心湧かしの、元ネタのタネ本を作っている、そんな気持ちも少しあって取り組んでいます(笑)。

--写真はどのように集め、保存しているのですか?

写真集「渋谷の記憶」は今までに3冊を発行。最近では写真を送ってくれる親切な方もおられます。ただ多くの写真は家族写真がメインで周りの景色が入っていないものが結構多いですね。中にはメールや電話をくれる人もいて、意外にも地方に住んでいる方が貴重な写真を残しているケースもあります。こうして送ってもらった写真や役所に眠っていた写真などを含め、今ではトータル数は2〜3万枚あるでしょうか。デジタルアーカイブスにするため、フィルムの物はスキャンをかけてデータ化します。紙焼きされた物も少々いたみの激しい物もありますが同様にスキャンして、直せるものは修復・復元して保存しています。膨大な量なので、すべてをデータ化することに疑問を感じたこともあったのですが、今ではすべてをやる必要があると思っています。目的によって要望はそれぞれありますから、キリがないんですが時間が許す限りやっています。

--写真集では「今昔」の写真を同じ場所で比較していますが、どのように場所や年代を特定しているのですか?

写真集「渋谷の記憶」では左ページに「今」、右ページに「昔」の写真を掲載する

写っている風景や広告などから年代を探したり、多くの場合は写真の中からヒントを探します。先日も小さく写る恵比寿の不動産屋を手がかりにして、撮影場所を突き止めました。写されている看板の電話番号や、昔の古い地図などを使い発見した情報と照合したり。写真の中には意外にも手がかりはたくさんあります。気の遠くなる作業ですが、撮影された何月までは特定できなくても年代ぐらいかは割り出さないとね。保留になっているものもたくさんありますが・・・。現代部分の撮影に関してもこだわりがあり、昔の写真にトヨタ車が走っていれば、今の写真でもトヨタの車が撮れるまで粘ったりとか。私も遊び心を持って撮影や編集を行っているので、昔と今をよく比較して見てもらえると、写真集の中に結構楽しめる隠しネタが潜んでいたりします(笑)。

写真集「渋谷の記憶〜写真で見る今と昔」シリーズ。2011年3月末には最新号が刊行される。

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