1959年東京生まれ。1984年横浜国立大学大学院修了。建設会社を経て、86年に岡本太郎が創設した現代芸術研究所へ。イベントやミュージアムなど、空間メディアの領域でさまざまなプロデュース活動を行う。「世界祝祭博覧会」(94)、「世界・炎の博覧会」(96)など数々の地方博をはじめ、「セビリア万博日本館」(92)、「ジェノバ国際博日本館」(92)、「大田国際博日本館」(93)等のプロデュースを手掛け、最近では「リスボン国際博覧会日本館」総合プロデューサー(98)、「川崎市岡本太郎美術館」展示プロデューサー(99)、「六本木ヒルズアリーナ」エグゼクティブプロデューサー(02-04)、「明日の神話」再生プロジェクト」ゼネラルプロデューサー(03〜)などを務める。2005年、岡本太郎記念館館長に就任。「日本イベント業務管理者協会」名誉会長。
JR渋谷駅と井の頭線改札を結ぶ渋谷マークシティ2階連絡通路で11月17日、芸術家・岡本太郎が描いた「明日の神話」の一般公開が始まりました。制作後30年以上にわたり所在不明となっていた巨大壁画の再生プロジェクトで東奔西走した平野さんに今の心境をうかがいました。
--「明日の神話」、今週から公開が始まりました。今はどのようなお気持ちですか。
長い旅がやっと終わったという感じですね。このプロジェクトのスタート・ボタンが押されたのは2003年の秋。メキシコであの壁画と再会した岡本敏子の決意と願いがすべての始まりでした。「これは太郎が渾身の力で描いた傑作であり、岡本芸術にとってかけがえのない作品。このまま埋もれさせるわけにはいかない。必ずこれを日本に持ち帰り、修復して多くの人に見てもらう。それが私の使命だし、人生最後の仕事。それが終わるまで、自分は太郎の元に行かれない」。彼女はそう言っていました。2004年の春に本格的にプロジェクトを始動させて4年半。文字通り長い「旅」でした。メキシコでの作品収容から始まり、愛媛での修復、汐留でのお披露目、東京都現代美術館での特別公開…。その間にいろんなことがありました。その長い旅がやっと終わったと…。いろんなことがあったな、だけど、やって良かったな、本当に良かったと、今しみじみ思っています。
--最初に「明日の神話」を持ち帰る話を聞かれた時、どのような気持ちでしたか?
「何だそれ?」と思いましたね(笑)。なにしろその時点でわかっていたのは「メキシコにあった」という事実だけ。所有権は誰にあるのか?こちらに渡してもらえるのか?日本に輸出できるのか?どうやったら運べるのか?どのように修復すればいいのか?果たしてあれだけ大きな壁画を引き受けてくれる場所があるのか?そもそも、それらに要する膨大な費用をどうするのか?…。メキシコにあったということはわかったけれど、そこから先の難問に対する展望も戦略もなかったし、そもそも情報自体がなかったんですよね。僕は本業がプロデューサーなのでいろいろなプロジェクトをやってきましたが、こんな目茶苦茶な話は聞いたことがない。もちろんどんなプロジェクトにも課題はありますよ。でも、同時に目算や勝算も少しは見えている。そうでなければプロジェクトが動き出すことはないんです。もしこれが普通の「仕事」だったら、僕は絶対に引き受けていませんでした。でも今回ばかりはいわば「血」に属する話だったから、逃げられなかったんですよ(笑)。敏子に「人生最後の仕事」と言われ、仕方なく目つぶって飛び降りることにしました。ところが、はじめてみたら山を超えてどんどん前に進んでいく。僕は「神に祝福されたプロジェクト」だと言ってるんです。何にもないところに生まれたたったひとつの願いが核になり、それが求心力となって渦ができた。その渦がいろんな人を巻き込みながらどんどん大きくなって、困難の山を次々と倒していった。いろんな人が輪の中に入ってくれて、助けてくれて…。なんでこんなことが起きたのか。僕は極めてシンプルに考えています。それは時代が、社会が、いまを生きる我々が太郎を求めている、あの作品を必要としている……そういうことなんだと思います。
--日本に作品を持ち帰るまでのプロセスで、大変だったというエピソードを聞かせて下さい。
どうやったら日本まで運ぶことができるか。それが最初の難関でした。美術品は普通、振動や気温や湿度の変化を避けながら、作品にダメージを与えないよう慎重に運びます。それが美術品輸送の常識なんですね。最初は僕もそう考えました。だけど、1枚が4.5メートル×5.5メートルもある大きな板を、しかもあれだけ傷んでいる作品を一切のダメージを与えずに運ぶのは不可能です。仮にそれができたとしても、想像を絶するコストと時間が必要なはずで、どちらにしてもリアリティがない。そもそも大き過ぎて公道を走ることができないんですよ(笑)。八方ふさがりでした。そのときふと、「あれだけひびが入っているんだから、それに沿って割ってしまえば運べるじゃないか」と思いついたんです。もちろん美術の常識からすればあり得ないこと。敏子に話したら、「それしかないなら、やりなさい」と言ってくれて。僕がこのアイデアを話したら、プロジェクトメンバーはみんな絶句しました(笑)。でも考えてみたら確かに運べる。よしやろうと…。修復家の吉村さんも「わかった。やろう」と言ってくれたんです。
--改めてもう一度、作品の恒久設置場が渋谷に決まった経緯を聞かせて下さい。
我々は、最初にこのプロジェクトの存在を社会にお披露目した2005年の6月から、「作品は売りません。公共の場で多くの人に観てもらいたいからです」と一貫して言い続けてきました。それが太郎の考え方だからです。太郎さんは絵を売りませんでした。芸術は大衆のもの、社会のものだと考えていたからです。「金持ちのリビングに入ったり企業の倉庫に入ったりするものに、一体何の意味があるか」と言ってね。だから彼はパブリックアートをたくさん創りました。「パブリックアートはいいぞ。見たくなったらいつでも誰でも、そこに行きさえすればただで見られる。それを見て、ああいいねって言っても、こんなくだらない物をつくりやがってと言ってもいい。あるいは、無視して通り過ぎたっていい。芸術というのはそういうものなんだ。道端の石ころと一緒なんだよ」といつも言ってました。だから「明日の神話」もそうしたかった。そして、いつでも誰でも見られる公的な場所に置かれることを前提にした上で、3つの条件を掲げました。第一に、物理的な観覧環境です。材料の性質上屋内でなければいけませんし、あれだけ大きな作品は収めるだけでも大変なこと。やはり、きちんと観てもらえる最低限の環境が整っていなければお渡しすることはできません。二つ目は、作品にその場所で向き合った時に、「ああ、この壁画はここに置かれて幸せだ。良かったな」と、誰もが直感的に思えること。つまりこの作品と場所をつなぐ「物語」があることですね。それなしに、作品がいきなりヘリコプターから降ってきた、みたいに思われるようでは、作品にとっても地元にとっても不幸ですから。最後の条件は、この作品を迎え入れる地元の情熱と決意です。設置先の選定を嫁入りに例えれば、最初の2つはいわば相手の年収と家柄です。親としてはもちろん気になるけれど、もっと大事なのは、「お嬢さんを未来永劫大事にします」という強い気持ち。これですよね。「この3つの条件を評価し、総合的に判断して決める」と言い続けてきたんですが、その結果、3カ所(渋谷、広島、吹田)が手を挙げてくれた。それぞれに物語を持っているし、特徴がありました。その中にあって、渋谷はすべてにおいてバランス良く条件が整っていたんです。なにより嬉しかったのは、提出された請願書に数十のはんこが押してあったこと。渋谷駅周辺と青山に向かうエリアのすべての町会、商店会の捺印がありました。地元が総意として迎えたいと意思表示をしてくれたわけですね。これは嬉しかった。さらに、空間条件も良かった。あの場所(JR渋谷駅西口と井の頭線改札を結ぶマークシティ2階の連絡通路)には、壁画のためにあるようなぴったりの壁があり、そこに自然光が入って、2階と3階の2層にわたって絵を見ることができて…今までこんな高い視点から絵を見ることはできませんでしたから。まさにぴったりでした。もちろん問題がないわけではありません。人がいっぱい通るからほこりも舞うし振動もある。でも、そんなものを吹き飛ばして余りある場所だと思います。駅という点も良かった。あの作品のことも太郎のこともまったく知らない人が、たまたま歩いていてあの作品に出合ってしまう。そういうことが起こり得るわけですね。もちろん外国人も含めて。それは駅という公共空間のもつ、ものすごく大きな特性です。
--美術品が置かれる場所として、駅は異例だということで大きなニュースになりましたね。
確かに普通の美術作品の扱いからみれば異例かもしれません。だけど、あれはもともと壁画なんです。最初の設置場所はホテルでしたが、そのときから公共的な建物に取り付けるために描かれた作品であって、最初から美術館の展示ケースに収めるために描かれた絵じゃないんです。もちろん美術館に比べれば環境条件は悪いけれど、壁画なんだから当たり前じゃないかと。実際、設置された「明日の神話」を見て、やっぱりこいつはこういう場所にあるのが一番かっこいいなと思いました。汐留も良かったし現代美術館も良かった。でも「ああ、やっぱりこいつは壁画だったのだ」という当たり前のことを改めて実感しています。これからきっと渋谷の景色も一変しますよ。だってハチ公の交差点を歩いていると見えるんですから、ばっちり。
--あの作品が渋谷にあることで、これからあの場所でどんなことが起きると思いますか?
渋谷は若い人たちの街でしょう?つまり太郎を知らない若い人たちがあそこで太郎に出会ってしまうわけですね。それがいわばスイッチになって、その先にある「TARO WORLD」に分け入っていく者がたくさん出てくるはずです。それが彼らにとって大きな意味をもつかもしれない。たとえば、僕にとっての人生最大の「事件」は、小学校6年のときに体験した1970年の大阪万博でした。衝撃的な出来事でした。ロボット、コンピューター、宇宙船、レーザー光線…メンコで遊んでいた小僧の目の前にいきなり未来が舞い降りたわけですから。この時代の日本に生まれて良かったと思ったし、未来はすごいぞと思った。夢を持てばいつか必ずかなうとも思いました。大阪万博は僕にとってまさに原体験であり原風景です。それと同じように、次の若い人たちにとって、あの「明日の神話」がある種の原風景、原体験になって次のフェーズを切り開く、僕はそういうことが起こり得るんじゃないかと思っています。閉塞的な時代なのでなおさらそう思います。青山の記念館や川崎の美術館では、スケッチブックに若い人たちがいろいろ書いてくれます。みんな、元気が出ましたとか、これで一歩足を前に出せそうな気がしますとか、壁にぶつかったらまた来ます…とか。太郎の作品や言葉に出合うと、背中を押してくれるような気がするんですね。おそらく自分の上に分厚くのしかかるどんよりした雲を太郎が切り裂いてくれる、そして一筋の光が差し込んでくる、そんな感じがするんだと思います。太郎は直球ド真ん中だし、自分をごまかしませんからね。今の大人はみんな保険を五重にも六重にも掛けながら、結局は責任を取らない。そんな偽善的な世の中にあって、太郎が自分を導いてくれると感じても不思議はない。気分はわかります。行きすぎると宗教になっちゃうけど(笑)。だから僕は若い人たちに「太郎にすがるな」「太郎を拝むな」とよく言ってるんです。まあとにかく、あの場所にあの作品があるのは、無数の数え切れない若い人たちにとって新しい世界を見せてくれる扉みたいなものだと思います。