1959年東京生まれ。1984年横浜国立大学大学院修了。建設会社を経て、86年に岡本太郎が創設した現代芸術研究所へ。イベントやミュージアムなど、空間メディアの領域でさまざまなプロデュース活動を行う。「世界祝祭博覧会」(94)、「世界・炎の博覧会」(96)など数々の地方博をはじめ、「セビリア万博日本館」(92)、「ジェノバ国際博日本館」(92)、「大田国際博日本館」(93)等のプロデュースを手掛け、最近では「リスボン国際博覧会日本館」総合プロデューサー(98)、「川崎市岡本太郎美術館」展示プロデューサー(99)、「六本木ヒルズアリーナ」エグゼクティブプロデューサー(02-04)、「明日の神話」再生プロジェクト」ゼネラルプロデューサー(03〜)などを務める。2005年、岡本太郎記念館館長に就任。「日本イベント業務管理者協会」名誉会長。
--結果的に若い人が多い渋谷に決まったことは、運命的な出会いだったのかもしれませんね。
太郎が亡くなった12年前、岡本太郎は半ば忘れられかけていました。敏子はそれが悔しくて仕方がなかった。たったひとり、あの小さい体で、太郎ルネッサンスをはじめたんです。絶版だった本を次々と復刻し、講演で全国を飛び回り、財団をつくり、記念館を立ち上げ…。そうやって彼女がまいた種が、今、だんだん芽を吹いてきているわけですね。彼女のモチベーションはただひとつ、岡本太郎を次の時代に伝えることでした。「若い人たちに、きちんと太郎を知ってもらいたい」…これだけなんですよ。
--渋谷にいる人間としては、その出会いをただ喜ぶだけでなく、もっとその深さを受け止めないといけませんね。
せっかく渋谷に来たのですから、それを活かさなきゃ損です。あの作品には人間をさまざまなものとつなぐ力がある。いわば「魔法の扉」みたいなもので、せっかくその扉が渋谷にやって来たのですから、うまく利用したらいいと思います。文化のシンボルという意味でも、街のアイデンティティという意味でも、あの作品をどんどん使ってほしい。今の渋谷にはへそが無いと思います。いろんな駒がうごめいて、次々と新しいムーブメントが生まれているのかもしれないけれど、それらを見通すときのより所というか、渋谷を考えるときの座標軸というか、そういうものがない。みんなで何かを語るときの共通言語、土俵みたいなものですね。もしかすると、「明日の神話」はそれになり得るかもしれない。僕は個人的に、渋谷という街は若いクリエイティブを大切にする以外に発展する道はないと考えているんですが、「明日の神話」のようなものこそが核に相応しいと思います。岡本太郎は権威や常識にたった一人で戦った人ですからね。渋谷は、古い体質とか、旧態依然とした常識とか、そういうものから自由になって次々と新しいコンセプトやスタイルを提示する、そういう街になるしかないし、そうすることでしか生き残れないと思いますから。
--平野さん自身が、渋谷と最初に出会ったのはいつ頃でしょう?
小学校までは麻布に住んで、中学から広尾に住んでいましたので、いつも渋谷を通っていました。通学にも使っていましたから、渋谷は中学、高校のときからのホームグラウンドです。遊ぶときはいつも渋谷でしたね。まあ、今でもそうなんですけど(笑)。当時の渋谷は今よりずっと奥行きのある街だったように思います。ちょっと角を曲がると違う空気が支配する世界が広がっていました。「俺はまだここまで。でも次はあの辺りに踏み出すぞ」「こういうメンバーだからここ、明日は彼女を初めてあっちに連れて行くか」みたいな…(笑)。若い僕たちにはとても魅力的でしたね。居心地のいい喫茶店がたくさんあったし、個性的なバーやディープな店もいろいろあった。ジャズ喫茶はあったし、なんといってもジァンジァンがあった。当時の印象は、ちょっと3分、5分歩くと違う世界が広がっていて、いろんな人がいて…。でも今は、残念ながら、だいぶフラットになってしまったような気がします。はっきりいえば、少しつまらなくなったなと思います。
--今でも渋谷に出ることはありますか?
行きますよ、もちろん。イケベ楽器にギターを見に行ったり、ディスクユニオンにCDを探しに行ったり。少し前まではブックファーストに本をよく見に行きました。Bunkamuraやオーチャードホールにもよく行きます。食事は、最近は青山や西麻布に行くことが多くなりましたが、やはり中学のころから馴染んでいるので、僕にとって一番リラックスできるというか、ほっとする場所です、渋谷は。ホームグラウンドという感じがしますね。人の多さは気になりません、むしろ、多いところがいい。海外に行って、日本と全然違う、たとえばオリーブ畑が広がるのどかな風景のようなところから帰ってくると、ハチ公前の風景を見るとホっとします(笑)。「ああ、帰って来た」と、。
--最近の渋谷にはどんな課題があると思いますか?
磁力というか、空気感というか、匂いというか、そういうものが薄くなってきているように思います。要するにニュートラルになっている。だから、「渋谷ってどんな街?何が面白いの?」と今聞かれたら、ちょっと答えに窮するというか…。たとえば、隣の青山には独特の空気感がありますよね。青山という言葉を聞いたときに、「こういう場所だ」って共有できるイメージがある。誰しもアート、デザイン、ファッション、クリエイティブ…といったようなワードが頭をよぎります。それは、青山でさまざまな試みに挑戦してきた先駆的なクリエイターたちの、経済原理を超えた「志の歴史」がストックされてきたから。その物語が地域イメージとして結実し、青山の財産になっているわけですね。でも、今の渋谷はファーストフードが代表するようなスタンダード的、アベレージ的なものばかり。経済原則だけで説明できる街になってしまったように思います。そうなると単なる不動産の集合だから、他の街との消耗戦に引きずり込まれてしまう。
--本業のプロデューサーの視点から、渋谷に将来どんなことを仕掛けてみたいと思いますか。
そうだなあ…若い才能を世に送り出す「ゆりかご」のような街になってほしいですね。といっても、みんなで仲良く学ぶ「学校」のようなイメージではなくて、一粒のダイアモンドをすくい上げるイメージです。クリエイティブな新しい挑戦を浮んでは消える100のあぶくに喩えれば、その中から残るのはたったひとつ。それが次の時代を拓いていくわけですが、渋谷はそのたったひとつのダイアモンドを育てて世界に送り出す街であり、そのために残りの99の失敗を受け入れる街であって欲しい。アートでも音楽でもファッションでも、ジャンルはなんでもいい。とにかく、志と野心をもった若者が最初に目指す街になって欲しいですね。
--そのためには、百のあぶくを常に出せるような街でなければいけませんね。
そう、そうなるためには、まず街が彼らを許容しなければならないし、なにより彼らが「渋谷は面白い」と感じなければ話ははじまりません。でもこれって、言うは易しくて、とても難しい。あの街は俺たちの可能性を受け入れてくれる、チャンスをくれる、あの街なら俺たちのことを排除しないし、ステータスも金もない者でもフェアに迎えてくれると。そういう街になれば、才能のある面白い連中が集まり、それが吸引力になって人が人を呼ぶようになる。ある種の実験場として、才能が触発し合う街になる。ちょうど一昔前の青山がそうだったように。ジャンルを超えて挑戦者が集まれば、いろいろな化学反応も起こすでしょう。そうなるとポジティブな回転がはじまります。街がそうなれば、最後は地域の人たちみんなが得をするんですよ。