1952年、静岡県南伊豆町に生まれる。日本大学在学中は、ヤマハ渋谷店の楽器売り場、レコード売り場でアルバイトを続ける。卒業後、大手レコード卸「株式会社Disc Center」に入社。79年に退社、翌80年、渋谷警察署裏に廃盤専門店「Manhattan Record」をオープン。93年に現店舗のある宇田川町に移転。91年、「株式会社レキシントン」を設立。2007年に「株式会社Wego」と経営統合した。
世界で最もアナログレコード店が集積する街とも言われる渋谷。その中の老舗「マンハッタンレコード」創業者の平川さんは道玄坂ヤマハのアルバイトでデビュー以来、渋谷で音楽ビジネスに携わってきた。平川さんに、自身が築いてきたレコードビジネスを振り返っていただきました。
--平川さんが最初に渋谷の街と出会ったのはいつですか?
ちょっと待ってくださいね、1952年生まれだから18際のときだから1970年ですね。実家が下田なのですが、田舎に残りたくないという思いが非常に強くて1970年に、とにかく東京に出たいということで、東京に出るために大学進学したという感じですね。大学1年生のときに、道玄坂のヤマハでギターを買ったんですよ。「シスコ」さんが西武の地下で「ビーイン」という何かのセクションで輸入盤屋さんをやられていた時代ですが、道玄坂のヤマハがレコードであれ楽器であれ、もうとにかく、あの近辺ではもうナンバー・ワンだったんですね。その当時、僕はヤマハの一番高いギターを確か15万円ぐらいで買いました。
--すごいですね。1970年の15万円というのは。
買ったんだけど、もうマーチンとかのギターに比べるというか、カッティングしてパッと弦を押さえたときに残響音が残ったんですよ、モワーンという音が。「15万円のギターなのに残響音が残るのはおかしいじゃないか」って文句を言いに行ったんですよ。そうしたら、その売り場の主任は「君はいい感性を持っているね」っていうことで、「うちでアルバイトをやらないか」と誘われ、楽器係としてアルバイトをしました。そのころは、あのジャズ・ギタリストの渡辺香津美さんが、本当は2年ほどかかるヤマハのジャズスクールを3カ月ぐらいで卒業したみたいなときで、ほかにもスタジオ・ミュージシャンのそうそうたる方がたくさんいらっしゃいました。矢沢永吉さんなんかもカールヘフナーのあのベースを欲しいなっていう顔して、ウィンドケースの前に立っていらっしゃったのを覚えていますよ。キャロルがブレイクし始めたころですね。
--道玄坂に週何回かは通っていらっしゃったわけですね?
そうですね。あと、百軒店に今もあるストリップ劇場の先にあるロック喫茶「BYG」や、カレーの「ムルギー」に行ったりしていましたね。その「ムルギー」の先に「ブラック・ホーク」というロック喫茶があったんですよ。そこに松平さんという有名なDJがいて、彼がかける音楽が、いわゆる当時はやっていたレッド・ツェッペリンとかディープ・パープルじゃなくて、何かヒューマン・ソングスみたいな、イギリスだったらイギリスのトラッド・ソングとか、アメリカだったらジェームス・テイラーにちょっと似たマイナーなアーティストをかけていたんです。とにかく変なロック喫茶でね、店の中でこうやって話していると怒られるんですよ。みんな音楽を聴いているんだからって。そこで、そういう音楽を聴いで、ますます音楽にのめり込んでいきました。それまではずっとブルースが好きだったんですよ。高校2年か3年の頃、ブルースに出会って、エイト・ビートでもシャッフルでも、ドラムとベースが黒人だと、明らかにノリが違うということが自分の中で分かったんですね。ジャズはちょっと難しかったから、ブルースの方がこれは面白いなっていうので、ブルースのレコードを集め始めました。今思えば、この「ブラック・ホーク」が結構原点ですね、音との。それで、いろいろあって、その楽器売り場の主任が変わったりして辞めました。大学3年のときに、今度はレコード売り場の主任さんに声をかけられて、レコード売り場で働かないかと誘われました。というのは、ヤマハでアルバイトして稼いだお金をもうほとんどレコードにつぎ込んでいましたから、音楽が好きだっていうことは、その主任さんが分かってくれていたようです。
--今度はレコード売り場に?
当時の売り場はほとんど女の子ばかりでした。そこで、音楽に詳しいのだから輸入盤の担当をやってくれと言われました。当時は、日本盤が出てないレコードがたくさんあったんですよ。それを「ビルボード」の広告だとか「キャッシュボックス」の広告とか、チャートを見たりしながら自分なりに研究しました。今こそインターネットなどですぐに検索できますが、例えばプロデューサー何々はこんなアルバムを作っているっていう情報がなかったので、自分が買ったレコードのクレジットを全部ノートに書き写すんですよ。そうすると、このベースプレーヤーはこういうアーティストとやっている、このプロデューサーはこの人とやっているってなると、ジャケットの裏を見て買うようになっちゃうんですよ。裏を見てプロデューサーだとか、レコーディングスタジオだとか、その辺で何かこう勘で買うみたいな…。だから、無駄金も結構使いましたけど、当たったときの喜びっていうのが大きかったですよね。
--レコード売り場でのアルバイトはいつまで続きましたか?
4年生を卒業して1年間やりましたね。だから、2年半ぐらいは多分レコード売り場でアルバイトしていました。それでそろそろ辞めようかなと思ったときに、今も大阪にありますが、ディスクセンターという輸入盤の問屋さんが、うちへ来ないかと声をかけてくれました。だったら僕は「東京支店を作りましょうか」「じゃ、作ってくれるか?」みたいなことから、その会社に2年ぐらいいましたかね。最初は中目黒に事務所を開いて、78年ごろに宮益坂の雑居ビルの4階か5階に移りました。当時タワーレコードさんはまだ来ていないときで、渋谷以外にも吉祥寺や中野、御茶ノ水などの界隈に輸入盤を扱っている店が多くあって、クラシックであろうがレゲエであろうが、それなりに自分で勉強して、そうした店の店主と仲良くなり、取り引きしていただけるようになったんですね。そのうちにタワーレコードができたのかな…渋谷の店の前にね。
--当時、どれくらいの売り上げがあったのですか?
当時、僕一人でたぶん4、5,000万円売っていたんですよ。だけど、やっぱり給料が少ないじゃないですか。で、とりあえず田舎に帰ってもいいんだけど、ここでちょっと一勝負みたいな感じで、赤坂のアメリカ大使館へ行きました。そこに置いてあるロサンゼルス、サンフランシスコ、デンバー、ミネアポリス、シカゴ、デトロイトあたりのイエローページをめくっていたら、中古盤屋さんが結構あったんですね。その時は、タワーレコードさんはできていたけれども廃盤になれば売ってないじゃないですか。だから、そういう何か廃盤専門店を開いたらどうかと考えたんですね。だけど、そのレアなものは簡単に見つかることはなくて、もう何千枚見て2、30枚買えるみたいな作業の積み重ねでしたね。その代わり、たまにデットストックがドンと出るようなこともありました。その頃はアメリカに年6回ぐらい行っていましたね。
--その頃、独立を?
その後、78年に会社を辞めて、79年に秋葉原の角田無線さんにレコード売り場があって、そこの催事場を使っていいから廃盤セールみたいなことをやらないかという話が持ち上がり、アメリカに買い付けに行きました。個人で。それを年間3回か4回ぐらい、それを1年ちょっとやったと思います。だけど、アメリカに例えば1カ月ほど買い付けに行って、荷物が着いてだいたい2カ月。準備して売り出して1週間でしょう。そうすると、4回やっても8カ月。あと4カ月は何もやることがないんですよ。毎日かみさんと顔を突き合わせていなきゃいけないっていう(笑)、そういう感じでした。それだったら店を出そうということで、渋谷警察の裏手に最初の店を出しました。80年4月7日のことです。「ミュージック・マガジン」を整理していたら出てきたんですよ、当時の広告が(笑)。店名も、「マンハッタン」だったら誰でも覚えてくれんじゃないかと思い、名付けました。
--やはり、渋谷好きが渋谷出店の背景にあるのでしょうか?
当時の渋谷は、東横線と井の頭線に乗っている人が、やっぱりあか抜けていたように感じていました。渋谷への出店は、それなりにみんな行き来しているって場所というのもあったし、渋谷が好きだっていうのも当然ありました。自分が学生時代を主に過ごした街であるということも大きいですね。ただ、店を出すとなると当然、道玄坂の方はやはり家賃が高いわけです。今の西武さんの方も高いし、当時は井の頭通りもラブ・ホテルのイメージがものすごく強かったんですよ、今よりはるかに。それがパルコさんができたおかげで人の流れが変わって、あの辺が一挙に開けましたよね。ただ、駅から近ければお客さんは来てくれるっていう頭があったので、渋谷警察署の裏って言えばすぐわかるじゃないですか。それで渋谷警察の裏に出しました。