静岡県富士市生まれ。大学入学を機に上京し、卒業後の1969年、東急ホテルチェーン(東急ホテルズ)に入社。羽田東急ホテル、本社総務課長、銀座東急ホテルの副総支配人を経て、セルリアンタワー東急ホテルの開業準備室に入室。現在は、同ホテルの総支配人を務める。
1世紀以上の歴史を持ち、世界的に最も信用されているレストラン・ホテルのガイドブック「ミシュランガイド」。2007年11月に発行されたその東京版で、セルリアンタワー東急ホテルは、タワーズレストラン「クーカーニョ」が一つ星、ホテル部門では四パビリオン(5等級のうち4番目に高い評価)の評価を受けました。この高評価の背景には、どのようなコンセプトや戦略に基づく経営努力があるのでしょうか。総支配人の川島保司さんに語っていただきました。
--今回の「ミシュランガイド東京2008」での評価は、どのように受け止めていますか。
レストラン部門ではタワーズレストラン「クーカーニョ」が一つ星、ホテル部門では四パビリオンの高い評価をいただきました。ミシュランガイドが日本でも出版されると聞き、「ぜひ載せてもらいたい」とは思っていましたが、それが本当に実現して大変にうれしく思います。当ホテルは、2001年の開業以来、和モダンのデザインと文化発信というコンセプトを守り続けてきました。豪華さよりはデザイン性の高さを重視していますし、能楽堂を設けて和の文化、ジャズバーで洋の文化、そして和洋中のレストランをそろえて世界中の食文化を発信しています。今回の評価は、そうしたコンセプトに基づくサービスを認めていただいた結果と受け止めています。
--セルリアンタワー東急ホテルでは、どのような客層が多いのでしょうか。
ホテルのコンセプトが外国人の感性を意識していることもあり、アメリカやヨーロッパ、オーストラリアなどを中心に外国人のお客様が半分以上を占めています。なかでも、デザイナーやミュージシャン、高級ブランドの関係者などが多いのは渋谷の土地柄でしょう。開業当初から渋谷周辺の外資系ホテルなどをコンペティターと考えていますが、渋谷には外資系企業が集積されていないという弱みがある。そこで、フランスを中心に世界中に高級ホテルを展開するコンコルドホテルズと提携してその販売網を利用したり、ヨーロッパやアメリカにスタッフを派遣して営業活動を展開するなど、外資系のお客様を獲得する努力を続けてきました。そうした販売戦略とホテルのコンセプトとが相まってリピーター化し、多くの外国人のお客様に利用していただけていると思います。
--川島さんが東急に入るまでの経緯をお話ください。
もともと、生まれは静岡県富士市で、大学入学と同時に上京しました。青山学院大学に入った高校の同級生に会うために、渋谷にはよく来ましたね。静岡から見ると、東京の中でも渋谷は最も近い大都市だから、「田舎に一番近い東京」というイメージがありました。と言っても、当時はまだ大きな建物がなく、1963年に宮益坂上に仁丹ビルが建ったときには、「高層ビルが建った」と新聞にも紹介されるほどの大騒ぎでしたよ(笑)。このビルの前で、みんなデートの待ち合わせをしたりしてね。それから、東急文化会館1階の映画館「渋谷パンテオン」では、よく映画を見ました。パンテオンという名前がカッコ良く思えましたね(笑)。当時、地元(富士市)の映画館といえば、「○○電気館」といった名称で小さなものだったため、渋谷パンテオンの規模の大きさにはびっくりした記憶があります。今思えば、ホント、のんびりとした時代でした。そんな大学時代を過ごし、1969年に東急ホテルチェーン(東急ホテルズ)に入社しました。
--当初はどちらのホテルに配属されたのでしょうか。
入社から足かけ19年間は羽田東急ホテルに勤めていました。その当時は羽田空港の利用者は前泊するケースが多く、ほぼ毎日、稼働率は100%近くに達していましたね。その後、7年間ほど、四谷にあった本社で総務課長として勤務した後、銀座東急ホテルの副総支配人を経て、セルリアンタワー東急ホテルの開業準備室に入りました。普通、開業準備室は建物が完成するかしないかというタイミングで設置されることが多いのですが、当ホテルの場合は図面の段階から携われたのが良かった。例えば、我々の目では問題なく思えても、料理長に見せると、「ここが狭すぎて作業ができない」などと図面上では分からないことがありますからね。でも、本当に体力を要する仕事だったので、できれば若い頃にやりたかった(笑)。そのようにゼロから作り上げただけに、当ホテルに対する愛着はひとしおです。