複合的文化施設として1989年に設立されて以来、渋谷の文化的な拠点になっているBunkamura。その計画段階から中心的な役割を果たし、現在は株式会社東急文化村の副社長に就く田中珍彦さんに、Bunkamura設立の経緯や渋谷の変遷について伺いました。
(※)こちらは、2006年10月時点のインタビューです。田中珍彦さんは、2007年より、株式会社東急文化村 代表取締役社長に就任されました。
--田中さんと渋谷との出会いを教えていただけますか。
大学生の頃には、よく遊びに来ていましたよ。ただ、渋谷でずっと過ごしていたというよりは、ボクは「点遊(てんゆう)」と呼んでいますが、街ごとにあるポイントを巡って遊んでいたんですね。例えばジャズを聴きたい時は、今は潰れてしまった道玄坂の「デュエット」というジャズ喫茶を訪れ、満席なら百軒店の「ディグ」や「オスカー」を覗き、そこもダメなら渋谷をやめて新宿のジャズ喫茶に足を伸ばす。つまり、いろいろな街を巡ってポイントで遊ぶスタイルだったんですね。そういう意味でのポイントがたくさんあったことが、当時の渋谷の魅力でした。
--それでは渋谷以外の街も色々と巡っていたのですね。
早稲田大学に通っていたので、渋谷よりは新宿で遊ぶことが多かったですね。当時の新宿は今よりも穏やかでおっとりしていて良い街でした。でも、最も訪れたのは恐らく六本木ですね。まだ市電が走っていた頃で、その頃はお金のない学生が遊べる店は少なかったのですが、ゴトウ花店の向かいに今で言うビストロのような店があって、そこをたまり場にしていました。六本木は新宿や渋谷のように学生で混み合うこともなく、ボクにとっては貴重な街でしたが、1964年の東京オリンピックの前から建設ラッシュが始まり、高速道路が通って、地下鉄の工事も開始された。それで騒がしくなっちゃったから、原宿に逃げて来ました(笑)。原宿も今とは大違いで、内苑のあたりから青山通りの方向を眺めると、緩やかな坂に沿って緑の並木が続くのが見えた。ボクらは「ドライブイン」と呼んでいた、確か「フランクス」という名前のレストランがあって、そこで生まれて初めてアメリカンコーヒーを飲んだことを覚えています。
--街の変遷をずっと見つめてきたわけですね。
そういうことになりますね。昔は今のように点と点の間が繋がっていなかったし、マーケティングによって遊び方のようなものも提示されていないから、点で遊ぶしかなかった。それで先ほどの話のような「点遊」になるわけですね。それが、次第に街が形成されていくと、人間というのは勝手なもので、遊び方が変わると街を「使い捨て」にしてしまうんですよ。そういう例を色々な街で見てきました。渋谷を例にすると、かつては道玄坂が中心だったが、それがセンター街や公園通りに移っていった。そういう変化が街の中で地殻変動のように起こるんですね。個人的な好みで言えば、代官山には行きたい場所や店はありますが、今の渋谷駅周辺には以前のようなポイントを持ちえなくなっています。渋谷の街は六本木などに比べても大規模で、ある場所が見捨てられても違う場所が注目されるでしょうから街全体が見捨てられてしまうことはないと思いますが、街全体がもっと魅力的になるとよいですね。
--大学卒業後は、どのような経緯で東急グループに入ったのですか。
卒業後は2年間ほどテレビ局の制作部で働いていました。が、あまり深く考えずに辞めてしまったことが間違いの始まりだったというか・・・(笑)。その後は、バンド活動やマネジメントをはじめ芸能関係の仕事をしていましたが、定職という定職は持っていませんでした。そんな生活を送っていた31歳の頃、突然、腎臓を患ったんですね。病院で尿検査を受けたら即入院というひどい状態で、一時は命も危ぶまれたんです。その入院中に時間があったものですから、改めて人生を考えた。そして、プロデューサーを目指していたんだということを再確認したんですね。退院後は、自分で企画を作って、それを形にすることが出来る広告関係のプロダクションに入りました。そして34歳のときに東急エージェンシーに声をかけてもらったのが東急グループとの出会いです。
--Bunkamuraの仕事に関わるようになったのは、いつ頃ですか。
Bunkamuraは1989年にオープンしますが、その5年前の1984年に開発計画がスタートして転籍になりました。渋谷は、新宿・池袋と並んで三大副都心と呼ばれ、そのなかでも最初に発展を遂げたにも関わらず、最も再開発が遅れていました。それを念頭に置いて、東急グループでは渋谷の再開発計画を立案し、その計画の一つとしてBunkamuraの計画があったんですね。広い意味でのコンセプトとしては渋谷に文化的な拠点を設けることでしたが、一口に文化と言っても実にさまざまです。そこで、最大公約数的な文化として音楽、映像、そして美術をカバーすることにして、それらをどのように集約するかを検討しました。社内では喧々諤々の議論でしたよ。なにしろ音楽だけでもクラシックから民族音楽までさまざまですから。結局は、音楽を中心に据えて「アコースティック」「エレクトリック」の二つに区分して、それらを共生させる方向を打ち出しました。そして、オーケストラやオペラ、さらにオーケストラと共演するバレーなど、アコースティックな音楽はオーチャードホールで上演し、音楽と映像や演劇を融合させたような作品はシアターコクーンで上演するというコンセプトが出来上がったのです。
--現在の渋谷の街をどのように考えていますか。
先ほど、ボクらは点遊していたと話しましたが、渋谷パルコができた頃から、「回遊」という言葉が使われるようになりました。しかし今は「直遊」になっているのではないかという気がします。というのも、Bunkamuraに来て下さるお客さまのなかには、駅からBunkamuraに直行して、絵画やコンサートを楽しみ、施設内でお茶を飲んで直帰される方々が少なくないからです。そうした現実は、渋谷に昔からいらっしゃるビルのオーナーさんや商店関係者など、渋谷の街を形成するみなさんと、見つめ直さなければと思います。
--今後の渋谷の街へのメッセージをお願いします。
街を変えるには、ダイナミックな手法が必要です。たとえば、アメリカのリンカーンセンターの開発では、もともとはスラム街だった地域にロックフェラー財団が手を入れて成功を収めた。ニューヨークの街に潜んでいた汚れや危険だって、ジュリアーニ元市長が大々的に改革を進めて一新されました。渋谷の将来を考える時にも、そのようにダイナミックな視点を持つことを忘れてはならないと思います。また、それには誰かがリーダーシップをとる必要があり、「街全体で」などといった曖昧な主体では何も進みません。これまでの渋谷は各自それぞれによって発展してきた好例といえます。しかし、今後も同様に発展を続けるとは限りません。現在の渋谷は、腰を据えて将来を考える時期に来ていると思います。
■プロフィール
田中珍彦(たなかうずひこ)さん
1940年東京生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。1974年に東急エージェンシーに入社。1984年、Bunkamura開発計画のスタートと同時に、東急百貨店に転籍し、88年には東急文化村設立と同時に取締役に就任する。2001年に同社副社長に就任。
Bunkamura 1989年に誕生した日本初の大型の複合文化施設。良質の文化を創造し提供する「発表の場」、新しい文化の育成のための「創造の場」、人、芸術、物の交流を促進する「出会いの場」の3つをコンセプトに、コンサートやオペラ・バレエなどの公演を行う「オーチャードホール」、演劇、コンサート、コンテンポラリーダンスなどの劇場「シアターコクーン」、海外の名作映画を上映する「ル・シネマ」、美術館「ザ・ミュージアム」などの文化芸術の施設で構成されている。1階と地下1階のカフェレストラン「ドゥ マゴ パリ」はパリの「ドゥ マゴ」の海外初の業務提携店としてオープンした。 |