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KEY PERSON キーパーソンが語る渋谷の未来

渋谷を中心に活躍する【キーパーソン】のロングインタビュー。彼らの言葉を通じて「渋谷の魅力」を発信します。

インタビューアイコン

島田歌穂
(女優)

バレエも、ミュージカルの舞台も、
渋谷は私の人生にきっかけを与えてくれる街です。

プロフィール

1974年、子役デビュー。’82年、ミュージカル「シンデレラ」で初舞台。87年『レ・ミゼラブル』で脚光を浴び、出演回数は1,000回を超えた。同作の世界ベストキャストに選ばれ、英国王室主催の御前コンサートに出演。参加したベストキャスト・アルバムが米国にてグラミー賞を受賞。主な出演作品は『飢餓海峡』『ロミオとジュリエット』『ウエストサイド・ストーリー』『江利チエミ物語』『黙阿弥オペラ』『ベガーズ・オペラ』『DOWNTOWN FOLLIES』など。女優、歌手として、ミュージカルからストレートプレイやコンサート、ライブなど幅広く活躍。芸術選奨文部大臣新人賞、紀伊國屋演劇賞個人賞、読売演劇大賞優秀女優賞など受賞多数。現在、大阪芸術大学教授。
今年、デビュー40周年を迎え、オールタイムベスト「MY GRATITUDE」、NEWアルバム「いつか聴いた歌」ほかCDをリリース。

子役デビューから40周年、また結婚20周年がちょうど重なるという、人生の節目を迎えた女優・島田歌穂さん。今秋には「渋谷音楽祭」で東京フィルハーモニー交響楽団との競演や「40周年記念コンサート」が決定するなど、ますますエネルギッシュに表現活動を続けています。今回のキーパーソンでは、常にキラキラした笑顔を絶やさない島田さんを迎え、渋谷で過ごしたというバレエ少女時代からアイドルを目指した80年代、そしてミュージカルとの運命的な出会いに至るまで、その想いを語ってもらった。「チャンスに恵まれ、歌に支えられてきた」という40年にわたる歌穂さんの人生とは――。

ロビンちゃん時代、渋谷までバレエの稽古に来ていました。

_歌穂さんといえば、一番に思い出すのが「がんばれ!!ロボコン」。今でも「ロビンちゃん」と呼ばれますか?

はい。今でも言われます。ロボコンを知っていらっしゃる方はだいたい世代が分かりますけど(笑)。もう40年前のことですからね。時々、お仕事の現場でお会いする、その世代の方々が、言ってもいいのか悪いのかなって悩まれながら「ロボコン見てました」と照れ臭そうに言って下さいます(笑)。

_ロビンちゃんはバレリーナでしたが、当時、歌穂さんはバレエを習っていたのですか?

4歳から習っていました。「バレエを踊る子で、子役を探しているんだけれど」と番組プロデューサーから声を掛けていただいたのが、出演のきっかけでした。自宅が青山で、バレエの稽古場が渋谷にあったんです。週3回、バスで青山から渋谷に通っていましたから、本当に渋谷は一番親しみのある街です。

_幼少期から渋谷と縁があるんですね。

現在は世田谷に住んでいますが、土地に慣れているせいか、今でもお買い物はだいたい渋谷です。今回、渋谷に関するインタビューを受けるにあたり、よくよく考えてみると縁があるなって改めて感じています。小さい頃からの思い出があるし、地元という意識がとても強いです。

_子どもの頃、渋谷で過ごした記憶や思い出を教えてください。

バレエの帰りにいつも渋谷駅まで歩いていました。ちょうど今のヒカリエのあたり、当時は東急文化会館でしたよね。高架橋を下がったところにちょうどバス停があって、そこからバスに乗って帰っていました。稽古が終わると夜でしたから、さすがに寄り道はしませんでしたが…。でも、東急文化会館には母と一緒に映画を観に行ったり、最上階にあったプラネタリウムにもよく遊びに行っていました。

_大人になってからのイメージはいかがですか?

昔は、大人の集まる街というイメージがありました。それは当時、私が子どもだったからかもしれませんが、いつからか、いっきに若者の集まる街に変わったように感じます。何かあったのかな?

_たぶん、90年代に「SHIBUYA 109」がギャルの聖地になったからでしょうね。

そうか、109ですね。その頃には、もう私も大人だったからかな? すっかり、若者の街になったなぁと感じています。センター街はちょっと怖くて歩けないかも(笑)。だから、最近はピンポイントで東急ハンズやバレエ用品を扱うチャコット、Bunkamuraにコンサートを観に行ったりとか。あと日ごろは車移動が多いので、山手通り方面からすっと駐車場に入りやすい東急百貨店本店でお買い物をすることも。街を歩くというよりも、ピンポイントで利用することが増えましたね。

_現在、渋谷駅周辺は大規模な再開発が進んでいますが、渋谷の街の変化をどう見ていますか?

子どもの頃から親しみのある場所がすべて変わってしまうのは、自分の思い出が消えてしまうようで本音をいえば寂しい。でも、渋谷の街がどんな風に変わっていくのか、その開発の行方はとても楽しみです。特に渋谷は坂が多い街なので、街全体がバリアフリーになったら素敵だなと思います。

現在、再開発が進む渋谷駅の様子

アイドルからミュージカルへ、渋谷パルコの初舞台で目覚めた。

_歌穂さんの活動について詳しく聞いていきたいと思います。子役として活躍した後、どのようなきっかけでミュージカルに転身されたのですか?

ちょうど10代の子役から大人へ切り替えの難しい時期に「アイドル歌手をやりませんか?」という話をいただきました。そのころは80年代のアイドルブームで、前の年は松田聖子さん、トシちゃんがデビューした時代。「アイドルやるなら、今しかできない!」と思い、アイドルデビューしたんです。ところがなかなか思うように売れず、「やっぱり、私はアイドルに向いていないのかな」と悩んでいた時期に、たまたまミュージカルのオーディションの話が舞い込んできまして。小っちゃい頃から好きだった歌や踊り、お芝居がいっぺんに出来るならと受けてみたところ、いきなり主役のシンデレラ役で合格してしまったんです。渋谷のパルコ西武劇場(現、パルコ劇場)、そこが私の初舞台になったんですけど、とにかく不安でいっぱい。ところが初日にメイクして、衣装を着けて、いざお客様の前に立った瞬間に、なんか自分の中に奥深く眠っていた不思議なエネルギーみたいなものが、何かパァーッと出てくるような感じがして。「あー、楽しい――! ここが私の一番輝ける場所かもしれない」って、初日の舞台の上で「私はこの道で進んでいこう!」と決意を固めたんです。

_それは、すごい体験ですね。

とにかく楽しかったんですよ。当時18歳でしたが「もう、これしかない!」と確信し、アイドルの事務所をスパッと辞めて、レッスンをやり直すことに。アルバイトしながらレッスンしてオーディションを受けてという日々がその後しばらく続いていきました。

_どんなアルバイトをしていたのですか?

当時、父が赤坂のあるお店でピアノを弾いていて、毎日そこでお客様の前でジャズを生演奏で歌わせてもらっていました。働きながら音楽の勉強が出来たので、舞台が軌道に乗るまでの間、本当に無駄なく充実した時間を過ごす事が出来ました。そのうち、少しずつ舞台で役をいただけるようになって、ミュージカルだけではなく、例えば、井上ひさしさんの「こまつ座」のお芝居への出演など、様々な出会いの中で本当に幸せな女優修行をさせてもらいました。

_こうした修行時代を経て、運命の「レ・ミゼラブル」と出合ったわけですね。当時のオーディションを覚えていますか?

もちろんです、生涯忘れられないオーディションです。あまりにも大きな作品だと思いましたし、大々的なオーディションで全国から1万2,000人以上の応募が殺到。私が受けたエポニーヌ役は、3,000人以上と一番競争率の高かった役で「これは受かるわけがない」「主要な役は有名な役者さんがなるのだろう」って。ただ、海外から一流のスタッフがやって来るというので、「これは参加することに意義がある」という気持ちで受けたんです。一次審査、二次、三次…、そして四次審査まであったんですけど、最後は2人まで絞られまして。で、最終的に合格したのですが、どうにも信じられなくて、現実が受け入れられない状態でした。記者会見の前日、「明日の制作発表で歌ってくれ」って突然言われて、「なんで私だけ歌わなきゃいけないの」と不安が募るばかりで。当日、司会者から「それでは、エポニーヌ役で合格された島田歌穂さんに歌っていただきましょう!」と紹介されて、会場で歌っているときに「あー、私、本当に受かったんだ!」と初めて実感が湧いてきたという、そんな思い出があります。

_今となっては、エポニーヌは島田さんの代名詞ですよね。

本当に感謝です。レ・ミゼラブルとの出合いは本当にラッキーでしたし、私の人生を大きく変えてもらった作品と言えます。出合いは23歳、そこから長い時間にわたってロングランにも参加させてもらい、出演回数は1,000回以上。1つの役をこんなに長く演じさせてもらえるなんて思いもしていなかったですし、生涯感謝し続けても足りないくらいです。

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