■面試蓋裡的方式,模擬只是高度
- 藝術家的抽象的概念
有思維藝術跳躍
在世界上,而並不知道,正在發生的事情是不同的
■簡介西村大輔1973年出生於橫濱。畫家和編輯,網頁設計師,音樂家。在東京大學的研究生,從事多發性硬化症的東京都老人醫療研究中心的研究。博士輟學。同時啟動畫家活動,參與,如2000年日本,荷蘭400週年紀念展。同年在紐約,除了個展,展覽小野洋子和金·戈登,在這樣的群展,這也參與馬琳大仲馬等人。還開展了在大街上的live house活動,並形成了帶“多羅”。 2001年,文化雜誌“TOKION”的編輯和網頁設計師。回國以後,2004年,從事“TOKION JAPAN”,規劃等的再版2004年·2005 Tokion創意現在(東角Laforet原宿博物館)。那麼,作為一個網頁設計師,空間淋浴電視網站(DAX),也產生了諸如TBS的節目現場做的。發布時間2007年2月雜誌“某人的花園”。目前非常活躍的樂隊“ECHOSTICS”中的一員。它也參加了OMI的合輯將在今年夏天發布的“庫拉的聲音”。
--西村さんが絵を描き始めたきっかけは?
僕が中学生の時に、スペースシャトルチャレンジャー号の爆発事故があったんですよ。ニュースにはほとんど出ませんが、実は日系アメリカ人が乗船していたのって、知っています? それを知って、僕も「宇宙に行きたい」と思うようになり、大学で物理学を専攻しました。修士では生物学も学び、その後、博士で認知症の分子科学的な研究を進めていた頃に絵を描き始めたんですね。東大の六号館の屋上に誰も使わない空き部屋があったので、そこで絵を描き、表参道の露店に並べて、たくさんの人に見てもらうのが、すごく楽しかったんです。描き始めたきっかけですか? そうですね、僕が学んでいたサイエンスって、絶対に「1+1=2」の世界なんですね。だけど、アートって「1+1=500」でもまったく問題がない。サイエンスの思考は陸続きだけど、アートには思考のジャンプがあるんです。僕にとってはアートの思考のほうが合っていたんでしょうね。
--本格的にアートの世界に入った経緯を教えてください。
露店で多くの人と出会いました。西城秀樹さんにも買ってもらえましたし、ドリカムの方々にも買ってもらったことがきっかけで、シングルCDのジャケットを描かせてもらったこともありました。やはりストリートつながりで、アムステルダムにあるギャラリーのオーナーの友人と知り合いになり、そこで個展を開かせてもらったことがあったんですね。絵を担いで、アムステルダムまで行きましたよ。その縁で2000年には日蘭交流400周年記念展にも出展し、その時に推薦状をもらい、アメリカのアーティストビザを取得してニューヨークに渡りました。それを機に「もう、いいか」と思って大学院も辞めたんです。ニューヨークでの生活は、当初は大変でしたよ。アメリカでは、アートで生計を立てられてはじめてアーティストという考えがあって、アーティストビザの取得者の税金が高いんですよ。それで遊んではいられず、ちょうど『TOKION』というカルチャー誌がニューヨークにオフィスを構えると聞いたため、そこでエディターとして働かせてもらうことになりました。
--ニューヨークでは、バンド活動も行っていたとか?
「Doro」というバンドを組みましてね、地下鉄の構内でストリートミュージシャンをしていました。そんな場所でパンクを演奏している日本人なんて他にはいないから、面白がられて一晩100ドルくらいの収入になりましたよ。日本のストリートミュージックと違うのは、ニューヨークでは大音量のアンプの持ち込みは許されず、みんな小さな音で演奏していること。だから一般の通行人の邪魔にはならず、興味のある人だけが集まって聴いているんですね。さらに、コミュニティ意識があって、「次は一緒に演奏しようぜ」などと、ミュージシャン同士のコミュニケーションも生まれているんですね。その点、渋谷の駅前でも、週末には多くのミュージシャンが出没しますが、ものすごい大音量でかき鳴らしていますよね。通行人や他のミュージシャンのことを考えているとは思えないのが、すごく残念でならないですね。
--帰国してからの活動について話していただけますか。
2004年に帰国すると、休刊中の『TOKION JAPAN』が復刊するというので編集責任に携わりました。それを2年間くらい続け、その後は個人のウェブデザイナーをしていたんですね。それで少しお金が貯まったから、現代アートやファッション、科学などを紹介するフリーペーパー『SOMEONE'S GARDEN』を仲間と一緒に創刊したんです。このタイトルは、ジム・オルークさんにアドバイスを頂いて考えたもので、日本語に直すと「他人の庭」。世界中のアーティスト、ミュージシャンの価値観やアイデアを知って「他人の庭」に興味を持ち、互いに勇気を与え合える、といった思いが込められています。外苑前のカフェ「Flaneur」の相澤さんと馬があって一緒に何かを始めようと盛り上がり、オフィスが誕生したんです。やるからには、誰の影響も受けない完全なインデペンデントでという思いがあって、制作はもちろん、広告営業も自分たちでやっていますよ。今のところ、日本よりも海外でのウケがいいですね。ニューヨークやロンドン、アムステルダム、台湾などにも広がっています。
--誌面ではサイエンス的な内容も含まれていますよね。
最新号の4月号では、今年で生誕300年を迎えるスウェーデンのカール・フォン・リンネという学者を大きく取り上げました。この人のこと、知っていますか? リンネは日本ではほとんど知られていませんが、海外ではニュートンと同じくらい評価されている凄い人物。何をしたのかというと、それまでに知られていた動植物に関する膨大な情報を整理して、分類表を作ったんですね。今では、動植物は「○○科」「○○目」などと分類されていますよね。それを創始した業績から、「分類学の父」と呼ばれています。本当に「科学はリンネから始まった」と言ってもいいほど、凄いことなんですよ。そういうことを、是非、若い人にも伝えたいと思ったんですね。それから、「他人の庭で、起きたこと。」というコーナーでは、たとえば、「恐竜の大絶滅は、哺乳類の進化にほとんど影響を及ぼさなかった」など、最近、明らかになった科学的なトピックスを紹介しています。そういうのって、別に僕らの生活とは関係のないことです。でも、関心を閉ざすのではなく、自分たちが音楽を聴いたり、Tシャツを買ったりする間にも、世界では色々なことが起きて、色々な発見があるという事実を知っておくのは、とても大事だと思うんですよね。
--若い人たちはサイエンスに関心を示すでしょうか。
今は、音楽もアートもファッションも飽和していて、みんな飽き飽きとしているでしょ。だから「エコ」などの新しいものに興味を示す。それと同じところに、サイエンスが受け入れられる余地があると思っています。でも、アートに興味のある人にサイエンスが受け入れられたとしても、難しい論文ばかり読んでいるサイエンティストに現代アートに親しんでもらうのは難しいかも。そういう一方通行も何とかできたら嬉しいんですけどね。まだ2号を出したばかりですから、今の形でどこまで続けられるか、とりあえず手探りで続けてみようと思っています。
渋谷に対する印象は?渋谷って、ニューヨークのローワーイーストサイドに似ていると思うんです。ローワーイーストサイドは、以前は少し危険なエリアでしたが、それだけに色んな人種の面白い人たちが集まっていた。最近は急速に浄化され、開発も進んでいます。近年は渋谷でも開発がすごいですよね。表参道エリアも変わってしまい、今では露店もほとんど許可されないでしょう。僕が露店を出していた頃は、街と露店がうまく共存していた。僕が露店から出発したように、それがアートの生態系の一部として機能していたんですよ。それが最近では、どこを見渡しても企業の姿が目に付くでしょう。アートの生態系は、ほとんど崩れてしまっていますよね。あまり生き方が上手ではない人間が追い詰められて、面白いものを生み出すことって、カルチャーにはあると思うんです。以前は、そういう人間が過ごしやすい街が渋谷だったんですけどね。
アートの生態系を取り戻すにはどうしたら良いでしょうか。若いアーティストが作品を発表する「出口」がどんどん塞がれていますから、まずは、そういう場を確保することが大事でしょう。その点、石原都知事が進めているトーキョーワンダーサイト(TWS)は、若者を発掘し、作品を審査して、発表の場を与えるという非常に魅力的な取り組みです。もっとTWSが盛り上がれば、状況は変わるのではないでしょうか。それから、ウェブサイトも一つの方法でしょうね。もう一度、バーチャルな空間にワイルドな渋谷を再現し、その吐き出し口として、TWSの施設やギャラリー、さらにビルの屋上や屋外スペースなどを利用する。最近ではビルの屋上緑化が推進されていますが、その緑化した空間に絵を飾ったりしてもいいのでは。それによってビルには人が集まるし、多くのメリットがあると思いますね。
渋谷区神宮前3-41-3 Flaneurカフェ4F
TEL.03-5647-6955 FAX.03-5647-6956
天才建築家フランク・ゲーリーの創作活動の全貌に迫るドキュメンタリー映画。本人や同業者、俳優のデニス・ホッパーをはじめとした施主らの言葉から、その創作手法やゲーリーの人間性などを浮かび上がらせる。監督は、ゲーリーの長年の友人であり、『追憶』『トッツィー』などの名作で知られるシドニー・ポラック。 |