■インタビュー・東京のリアルな光景や心理の描写に何度も共感
・日本人が考えている以上に外国人は東京に興味がある
・難民であることを隠さなければいけないと、昔は思っていた。
・自分の人生に強い影響を及ぼしている「渋谷」を名前にした。
■プロフィール渋谷ザニーさん
1985年ビルマ(1990年にミャンマーに改称)の首都ヤンゴン(現在はネピドー)に生まれる。3歳のとき、軍部のクーデターにより軍事政権が樹立。民主化を進める運動家だった両親とともに、弾圧を逃れて1993年、8歳に来日。10歳で申請した難民申請は16歳で認められた。高校時代からモデルとして活動。卒業後は亜細亜大学国際関係学部でアメリカ外交を専攻し、在学中にインポートデニムカジュアルブランド・EXRのショップ店員としてアルバイトを始める。卒業後、EXRにアドバイザーとして就職。その後、独立し、現在はEXRをはじめとした複数のブランドで、デザイナー、およびアドバイザーとしてとして活動中。
--ザニーさんが来日された当初の東京の印象をお聞かせください。
ミャンマーでは、民主化を進める運動家の両親が軍事政権から付け狙われていたため、祖父母の家に預けられていました。祖父の書斎には天井に達する本棚があって、鍵穴から向こう側の風景を覗けるような、とてもクラシックな家でした。やがて父親がバンコク、さらにマカオへ逃れ、そこで出会った友人から日本での商売の話を持ちかけられ、父はその後東京に来日します。そして1993年、8歳の時、父を追う形で僕と母親も東京に移り住んだのです。親子3人で暮らすのは、それが初めてでした。東京の当時の印象は「びっくり」以外の何物でもありませんでしたね。高速道路、排気ガス、騒音、街の汚れ、コンクリート打ちっ放しの建物――といった光景から強烈な印象を受けました。でもそれらこそが東京の熱気の形跡なのだとも感じました。最初の数ヶ月間は小学校への入学手続きの方法も分からず、それこそ引きこもるしかなくテレビばかり見て、アニメの「ドラゴンボール」「タッチ」などから必死に日本語を勉強しました。でも、あまりの環境の変化に戸惑いが大きく、気持ちはすごく沈んでいました。今でも車で当時の家の近くを通りかかると、怖くなって目を背けてしまう。東京の隅っこで泣いていた8歳の自分が未だにそこにいるような気がして――。
--その後の日本での生活についてお聞かせください。
小学校には3年生から通い始め、その後は順調に日本語を覚えて友達もたくさんできました。中学生の頃には苦もなく日本語を操れるようになりました。でも、辛い経験もありましたよ。高校の頃、バイトをしようと電話をかけたら、名前を言っただけで落とされてしまったり。ただ、今でも「いじめられたことはある?」とよく聞かれますが、逆に僕は「いじめられたことのない人なんている?」と聞き返したい。日本だけでなく、世界中の国に差別や偏見はありますが、それは僕にとっては大したことではありません。いかに自分をしっかりと持ち、差別や偏見を踏み台にしてリベンジしていくかが大切だと思っていますから。それでも、以前は、難民であることを隠さなくては、日本で仕事をするのは難しいと考えていました。ところが、ファッション業界は、そのように考えていた自分が恥ずかしくなるくらい、僕を受け入れてくれたのです。
--ファッション業界に入るまでの経緯を教えてください。
高校時代、ミューシャンになりたくてボーカルオーディションを受けました。渋谷にある事務所に入りましたが、デビュー間近で願いは叶わず、その後、同じ系列のモデル事務所に登録し、大学時代には渋谷109-2のビルボードの広告などの仕事をしました。同じ頃、ファッションへの興味から、渋谷と原宿の中間にあるブランドショップでアルバイトを始め、就職の時期になって、本社の幹部に「企画やデザインの仕事をしたい」と直談判。それが通ってデザイナーとして就職し、洋服やアクセサリー、靴などのデザインに関わらせていただきました。今はフリーの立場で複数のブランドで、デザイナー、さらに日本のマーケットを調査し、海外のデザイナーにデザインの方針を伝えるアドバイザーの仕事をしています。
--「渋谷ザニー」さんと名乗るようになったきっかけは?
渋谷は高校時代から、いつも友人と遊びに来ていた大好きな街です。さらに、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)、最初にミュージシャンとして登録した事務所、モデル事務所、ブランドショップと、僕の人生に深く関わってきた場所はいずれも渋谷にあります。この街には辛い思い出も楽しい思い出も凝縮されており、「きっと、これからも渋谷は僕の人生に大きな影響をもたらすはず」という思いから、大学時代、本名のザニーに「渋谷」を付けて、渋谷ザニーと名乗るようになりました。実際、その後のキャリアは渋谷を中心に動いています。海外のデザイナーにも渋谷は知られていますから、話のきっかけになるという利点もありますね。
--今後のビジョンをお聞かせください。
仕事での目標は、デザイナーから一歩進み、ブランドのクリエイティブディレクターになること。これは、服飾品はもちろん、店舗やビニールバッグ、パンフレット、値札にいたるまで、一つのブランドの包括的なデザイン戦略を立てる仕事です。日本のブランドにはまだ珍しいのですが、外資系ではクリエイティブディレクターの存在は一般的です。さらに、23歳になり、今の自分の立場から、どのような社会貢献ができるかを考えるようにもなりました。最近では祖国ミャンマーでのサイクロン被害のニュースに心を痛め、自分にできることを探っています。今後はUNHCRなどを通じ、募金活動をはじめとした社会的な活動を進めていく考えです。
渋谷への思いを語ってください。去年のクリスマス、仕事帰りにリサーチのために渋谷を一周しました。すると、僕が企画したブルゾンを着た若い男性を2人見つけました。クリスマスという特別な日に彼女を連れて歩くのに選んでくれたのですから、きっと、とても気に入っていただいているのでしょう。そう考えるうちに、「渋谷が僕を受け入れてくれている」という思いが沸いてきて、とても嬉しく感じました。今もセンター街を歩くと、渋谷という街に憧れ、毎日のように通い詰めていた10代の頃の自分のような若者をたくさん目にします。今後も渋谷からファッションを発信する立場として、あの頃の自分を裏切らないような洋服を作り続けていきたいと、強く思っています。
今後の渋谷に望むことは?以前に比べ、治安が格段に向上したのは、とても喜ばしいことですね。その反面、若者の自由な遊び場が減ってしまうのではないかと感じるときもあります。渋谷はファッションの街として、既に世界的な地位が確立しています。それは海外のデザイナーなどと話していると伝わってきます。これからの渋谷は、ファッションと同様、芸能に力を入れてほしいというのが個人的な希望です。若者が時間の余ったときに、気軽にミュージカルや演劇などを観られる街になると嬉しいですね。