現代アートの企画展示を行うギャラリー・NANZUKA UNDERGROUNDで、日本を代表する現代美術家・篠原有司男の作品を集めた「篠原有司男・暴走集会2006!!!!!!!! / 泥濘の鬼退治バイカーズ展!!!!!!!!」が開催されています。“ボクシング・ペインティング”をはじめ、前衛的な表現を次々に生み出す篠原有司男の作品を、元プロボクサーで現在は写真家として活躍する山口裕朗さんにご覧いただいて、ボクサーならではの視点から“篠原アート”の感想を伺いました。
篠原有司男・暴走集会2006!!!!!!!! / 泥濘の鬼退治バイカーズ展!!!!!!!!はこちら
NANZUKA UNDERGROUNDはこちら
--展示をご覧になった感想をお聞かせください。
とにかくエネルギーが伝わってきますよね。これまでに篠原さんの作品は、福山雅治さんと共演して“ボクシング・ペインティング”を行ったポカリスエットのCMでしか見たことがありませんでしたが、今日の鑑賞で一気にファンになりました。どの作品が良かったというよりも、ビビッドで破天荒な色づかいが醸し出す全体的な世界観がとても気に入りましたね。それから、これは個人的な感想ですが、篠原さんは思っていたほど“ぶっ飛んだ”人ではないと感じました。作品のタイトルの付け方はとてもストレートだし、作品自体にも難解さを感じなかった。僕は、いまいち、“芸術”という言葉の意味が分からないんです。だから、芸術作品といわれるものは、自分が好きかどうか、面白いと思うかどうか、といった基準で判断しますが、篠原さんの作品は大好きになったし、とっても面白かったですね。
--元プロボクサーの目から見て、“ボクシング・ペインティング”はどのように映りましたか。
とてもエネルギッシュでライブ感が伝わってきました。今年で74歳ということですが、肉体的にも精神的にも、とても若々しい方ですね。本当に驚かされました。ボクサーの視点で見ると、パンチは“芯”がとてもしっかりとしていましたよ。対戦したら意外と面白いかもしれない(笑)。それにしても、絵の具を付けたボクシング・グローブをはめて、真っ白いキャンバスを殴るという行為自体には何の意味もないと思います。それが篠原さんのエネルギッシュな姿や息遣い、キャンバスに当たるときの音などが一体になると、たしかに人を惹き付ける何かが生まれる。面白いパフォーマンスですよね。ぜひ、生で観たいし、写真にも撮ってみたいと思いました。
--そもそも、山口さんがボクサーを目指したきっかけを教えていただけますか。
中学3年生のときにテスト前の勉強をしていて、何気なくテレビを付けたんですね。すると、鬼塚勝也さんが相手のボクサーを強烈なボディブローでリングに沈める瞬間が映し出されて、それを見ていた僕の中で何かがはじけました。それまでにボクシングに興味を持ったことは一度もなかったし、殴り合いは兄弟喧嘩をする程度だったし、部活もソフトボール部だった(笑)。それでも、「これだ!」と思って、高校入試の合格発表を見に行ったその足でボクシングジムに入門したんです。ところが、テレビでの華やかさとは正反対の地道な練習がイヤになって半年ほどで通わなくなってしまって(笑)。しかし偶然にもクラスメートが別のジムに通っていて、その友達と話すうちにボクシング熱が再燃して彼と同じジムに再入門しました。その後はボクシングにのめり込んで高校3年生でプロライセンスを取得し、その翌年にデビューを果たしました。
--25歳で引退したのは、どのような理由があったのですか。
日本チャンピオンを意識し始めたころ、ニューヨークとメキシコに武者修行に行きました。帰国後、自分が格段にレベルアップしたのを感じて意気揚々と日本ランカーに挑戦したんです。ところが結果は判定負け。次戦もKO負けでした。でも、どちらの試合も「ジャッジがおかしい」「コンディションが悪かった」といった自分への言い訳があったんですね。ところが次のキンジ天野さんというボクサーとの試合では万全のコンディションで臨んだにも関わらず、完膚なきまでに打たれてTKO負けした。初めて「こいつには勝てない」と力の差を思い知らされた相手でした。試合後、何をする気も起こらずに、鹿児島から東京までマウンテンバイクで旅をすることにしました。その旅の途中に、散々、悩んだ挙句に引退を決意。そして帰京後、しばらく経ってから自分を納得させるために引退試合をして、リングから身を引いたのです。
--引退後、写真家への転進を決意したきっかけを教えてください。
現役時代は引退後のことは何も考えていませんでした。チャンピオンになることだけが頭の中の全てを占めていましたから。写真家になろうと決めたのは、先ほど話した旅の途上でした。フラフラと各地を訪れる間に美しい風景をたくさん見て、素晴らしい出会いがあった。そういう感動を誰かに伝えられる仕事をしたいと考えるうちに、「写真家だ!」と思い立ったのです。そして引退後、渋谷にある写真学校で学ぶうちに写真の世界の面白さを知り、プロとして究めたいと思うようになりました。
--写真家としてのデビュー以来、ボクシングの写真を撮り続けていますよね。
ボクシングの写真はライフワークとして撮り続けるつもりです。自分の好きなように撮りたいから、ボクシングの撮影は仕事にしたくない。というのは、報道用の写真なら勝敗を明確に伝えるために勝者を撮らなければいけないけど、そのときに僕は敗者の表情を写したくなるかもしれない。だから個人的に撮りたいのです。今、ボクシングの写真はモノクロにこだわって撮影しています。それはボクサーの表情や動きを伝えるためには色は不要だと考えているから。たとえば血の色から生臭さや痛さをイメージされてしまうと、伝えたいことがぼやけてしまいます。そういう要素を取り除いて、リングに上がるときの真剣な表情や、ボクサーという生き方を発信したいと思っています。
--今後のビジョンなどがあればお話していただけますか。
現在、ボクシングと並行して、タイのムエタイ戦士の写真も撮影しています。過去にタイを訪れたときに彼らの姿に強烈に引き付けられたので。といっても、決して格闘技にこだわっているわけではなく、自分の中ではボクシングは写真の世界への入口と考えていて、今後はもっと広い分野で“人間”を写したいと思っています。自分を魅了する人たちをどんどん撮っていきたい。その意味では、今日、僕の心を動かしてくれた篠原さんの写真を撮れる日が訪れることを願っています。
1932年東京生まれ。本名は牛男で、「ギュウチャン」のニックネームを持つ。1952年に東京芸術大学に入学(1957年に中退)。1957年から読売アンデパンダン展に出展を続け、その常識を打ち破る表現活動で大きな話題になった。この頃から絵の具を含ませたボクシング・グローブで壁を叩く“ボクシング・ペインティング”を開始。また1960年には赤瀬川原平らとともに「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」を結成した。1969年にロックフェラー財団の奨学金を受けて渡米してからは、活動の舞台をニューヨークに移し、現在に至るまで前衛的な作品を世に送り出し続けている。
山口さんと渋谷との関わりを教えてください。 今、大量の写真をスクリーンに投影する映像作品を作っています。引退後に虚無感にさいなまされる元ボクサーが不思議な女性に出会って変わっていく--という友人が描いたシナリオに沿って写真を撮ったのですが、その撮影地として渋谷を選びました。この作品では“水”が重要な意味を持つのですが、渋谷警察署の近くにわずかに流れる渋谷川を見たときに、作品にしたら絵になりそうだと直感したんです。それから、渋谷駅から桜丘町に渡る歩道橋は頭上に高速道路が走っているのですが、その光景には「この高速道路はどこまで続くのだろう」と思わせるようなものを感じました。このスポットも作品の中に収めています。
渋谷の街をどのように感じていますか。 写真学校は渋谷にありましたし、この街は足繁く訪れているのですが、酒を飲むという観点では僕は新宿の方が好きなんです。なんだか人間臭くて。それから、もう一つ、大好きな街がジムのあった下北沢。新宿で毎日飲むと疲れてしまいますが、下北沢は小さい建物が連なっていて街が身近に感じられ、すごく落ち着くんですよね。ミュージシャンとか面白い人たちがたくさん集まっていますし。僕にとっては「オシャレな渋谷」と「人間臭い新宿」、そして渋谷からも新宿からも等距離にある「ちょうど良い加減の下北沢」、そんなイメージで街を捉えています。今後も渋谷は、“オシャレで若者が集まる街”という方向性で進化してほしいと思いますね。
■プロフィール
山口裕朗(やまぐちひろあき)さん
1974年東京生まれ。1993年にプロボクサーとしてデビュー。17戦10勝(6KO)7敗の戦績を残して1999年に引退。同年から渋谷にある日本写真芸術専門学校で写真を学ぶ。2002年『サンデー毎日』で写真家としてデビュー。以後、雑誌を中心に写真家として活躍する一方で、プライベートではライフワークとしてボクサーや、タイのムエタイ戦士などを撮り続ける。心に鼓動する写真を撮り続けたいという気持ちから、自らを「写心家」と呼ぶ。
http://foto-finito.com/
「オートバイ彫刻」のシリーズや、各年代に描かれた絵画など、過激な色彩と強烈なデフォルメが特徴の篠原有司男の前衛的な作品を展示。ギャラリー内では“ボクシング・ペインティング”の映像も上映している。
|