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今昔写真から振り返る「あの日の渋谷」vol.4
テーマ:「完成間近の首都高速3号渋谷線」

「あの日の渋谷」は、「昔」と「今」の渋谷の写真からまちの歴史を振り返るフォトギャラリー。「昔の写真」を改めて見直してみると、当時の渋谷の街並みや、人びとの暮らし、ファッションなど、様々な変遷が今日の渋谷に繋がっていることがよく分かる。この企画では「昔」と「今」の渋谷の写真を見比べながら、懐かしい渋谷のまちの歩みを振り返ると共に、昔の写真の中から「新しい発見」や「気づき」を見つけていきたいと思う。第4回目となる今回は1964東京五輪を目前に控え、完成間近の「首都高速3号渋谷線」の風景に注目してみたい。

メイン写真は、東京五輪が翌年に迫る1963(昭和38)年、国道246号線の頭上に「首都高速3号線渋谷線」の建設工事が進む風景を撮影した1枚。桜丘町から国道246号線を挟み、渋谷駅西口方面を臨んだものだ。近い将来に訪れるモータリゼーションへの対応のため、1950年代後半ごろから首都高速道路の建設計画が本格的に検討。さらに1959(昭和34)年に東京五輪招致が決定したことを受け、その計画が一気に加速した。

首都高の歴史ページ「首都高ドライバーズサイト」によれば、首都高速道路の建設は1962(昭和37)年12月20日、京橋−芝浦間 (4.5 km)の初開通を皮切りに、1963(昭和38)年12月1日に本町−京橋 (1.9 km)、芝浦−鈴ヶ森 (6.1 km)、呉服橋−江戸橋JCT (0.6 km)と続き、1964年(昭和39)年8月2日 に鈴ヶ森−空港西 (4.8 km)、汐留JCT−新橋(0.3km)、神田橋−初台 (9.8 km)、呉服橋−神田橋 (0.4 km) 開通。さらに五輪開幕のカウントダウンが始まる同年9月21日に三宅坂JCT−霞ヶ関 (1.4 km) 、10月1日に浜崎橋JCT−芝公園 (1.4 km)、3号渋谷線渋谷−渋谷 (1.3 km) が開通している。五輪開会式の僅か9日前、渋谷線の開通は厳しい工期の中で、突貫工事が行われていたことは想像に難くない。この首都高の整備に伴い、「羽田空港」から「オリンピック選手村(現・代々木公園)」、「国立競技場」を結び、五輪会期中の都内の交通渋滞を回避して、移動時間の大幅な短縮を実現させたという。確かに写真を見る限り、今日までとはいかないものの、国道246号線、渋谷駅西口に多くの車が出入りしている様子が見られ、都内の自動車台数の増加に伴い、交通渋滞が問題視され始めてきた時代であることがうかがえる

<参考資料>
首都高ドライバーズサイト
http://www.shutoko.jp/fun/history/

さて「首都高速3号渋谷線」は、六本木通りから国道246号線方面へ、谷地形の渋谷駅(JR山手線、東急東横線)を跨いで高架橋が設置されているが、この工事も一筋縄ではいかなかったようだ。高架橋の建設においては「カンチレバー(ディビダーク)」といい、山間部の谷地など足場の作れない場所に橋を架ける際に用いられる工法が採用された。1つの橋脚からバランスを取りながら、両側にコンクリートの張出していく架設工法で、乗降客数が多く、車や路面電車などが複雑に往来する都市部では初の試みだったという。丹下健三氏が設計した代々木体育館でも「吊り橋」の技術が応用され、大きな屋根を取り付けられているが、大きな橋梁づくりの技術が前回五輪を下支えしていることがわかる。ある意味、橋は人類の知恵と努力が結集された建造物と言えるだろう。
写真提供=渋谷区郷土写真保存会
ちなみに写真は、2つの橋脚から徐々に張り出したコンクリートが、中央閉合部で施工される一歩手前のものだ。五輪前の街の勢いのようなものを、この写真から感じ取ることが出来るだろう。

<参考資料>
鹿島建設「特集TOKYO1964」https://www.kajima.co.jp/news/digest/sep_2014/feature/index-j.html
カンチレバー技術研究会
http://www.cantilever-method.org/

「首都高速」以外の情報にも目を向けてみよう。まず、橋の右側奥に見える大きな建物は、「東急百貨店西館」である。現在との一番の違いは、屋上階に時計台が設置されている点だろう。地上11階43メートル、西館(開業当時は「東急会館」)が開業した1954年(昭和29年)当時、同ビルは東京で最も高いビルであった。その1番高いビルのてっぺんにあった時計台は、きっと街のどこからでも見えるシンボルであったに違いない。さらに建築家・坂倉準三氏が設計した同ビルがユニークなのは、2階部に路面電車・玉電の乗り場、3階部に銀座線のホームを内包している点にある。写真をよく見ると、3階部から銀座線がちょうど飛び出しているのが分かる。狭い土地を有効利用した苦肉の策とも言えるが、首都高速道路の立体化と共に「近未来的な都市の姿」をそこに垣間見ることが出来るだろう。ちなみに玉電は、1969(昭和44)年に惜しまれつつ約60年の歴史に幕を閉じたが、今日でもJR山手線の渋谷マークシティと直結する2階改札口を「玉川口」と呼ぶのは、その名残である。
銀座線の後方に見える建物は、峰岸ビル(現・渋谷Q-FRONT)である。渋谷東宝劇場やディスコ「BIG APPLE(ビッグアップル)」などが入居し、渋谷を代表する若者たちの遊び場の一つであった。その後、「IT革命」というキーワードが流行った1999(平成11)年12月、峰岸ビルの跡地に壁面に大型デジタルサイネージを備えた商業施設「渋谷Q-FRONT」が開業し、誰もが知る今日の渋谷駅前の風景が形成されることになる。
その一方、首都高速の左奥に見えるのは、京王帝都(現・京王電鉄)の駅ビルだ。画像解像度が低いが、ビル屋上部に「京王帝都渋谷駅」というサインが設置されているのが、何となく読める。1960(昭和35)年に新設された駅ビルは、連絡通路で東急百貨店西館と結び、山手線、地下鉄銀座線、東横線、玉電(玉川線)の乗り換えを容易とした。その後、同ビルは2000(平成12)年、井の頭線の乗り場と銀座線の車庫、ホテルや商業施設などを含む「渋谷マークシティ」として生まれ変わる。ちなみにこの写真には、現在建て替え工事を進んでいる「東急プラザ」(1965年開業)の姿はまだなく、半世紀以上にわたる歳月の長さを改めて実感させられる。
2017年10月30日撮影(撮影者=佐藤豊)
今後、同エリアは2019年秋に新しい「東急プラザ」が誕生するほか、五輪以降の2022年頃に「渋谷駅桜丘口地区」、2027年までに「東急百貨店西館・南館」の再開発が計画されている。10年後、同じ場所から撮影する写真は一体どんな風景になっているのだろうか。きっと、この半世紀とは比べものにならないほど、大きな変貌を遂げているに違いない。

最後に裏話を一つ。毎回掲載写真で協力を頂いている写真家の佐藤豊さんに「首都高速3号渋谷線」についてお話しをうかがったところ、当時の「首都高速3号渋谷線、料金はいくらだと思いますか?」と突然質問をされました。「料金ですか? 全く検討もつきません」と答えると、「知りたいですか」と言いながら料金を教えてくれました。答えは「20円」だそう。答えを聞いた瞬間、思わず「安っ!」と声を挙げてしまったが、これって高いのか安いのか?。厚生労働省の調査によれば、1964年の大卒初任給は21,200円である。初任給に占める割合の1/1000くらいと考えれば、そうバカ高いものでもなかったようだ。

<バックナンバー>
「あの日の渋谷」Vo.1テーマ:「代々木競技場」(2017年11月21日掲載)
「あの日の渋谷」Vo.2テーマ:「原宿駅」(2017年12月28日掲載)
「あの日の渋谷」Vo.3テーマ:「渋谷駅ハチ公前広場」(2018年2月14日掲載)

編集部・フジイタカシ

渋谷の記録係。渋谷のカルチャー情報のほか、旬のニュースや話題、日々感じる事を書き綴っていきます。

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