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今昔写真から振り返る「あの日の渋谷」vol.3
テーマ:「1964年の渋谷駅ハチ公前広場」

「あの日の渋谷」は、「昔」と「今」の渋谷の写真からまちの歴史を振り返るフォトギャラリー。「昔の写真」を改めて見直してみると、当時の渋谷の街並みや、人びとの暮らし、ファッションなど、様々な変遷が今日の渋谷に繋がっていることがよく分かる。この企画では「昔」と「今」の渋谷の写真を見比べながら、懐かしい渋谷のまちの歩みを振り返ると共に、昔の写真の中から「新しい発見」や「気づき」を見つけていきたいと思う。第3回目となる今回は、1964年(昭和39年)の五輪ムードが漂う「渋谷駅ハチ公前広場」の風景に注目してみたい。
写真提供=渋谷区郷土写真保存会
上の1枚のモノクロ写真は、渋谷駅北口(現在のハチ公前広場)で、正面に見える建物は東急百貨店西館だ。もともと3階建てであった「玉電ビル」を、昭和を代表する建築家・坂倉準三さんの設計により、1954(昭和29)年11月に地上11階建ての「東急会館(現、東急東横店西館)へ増築。2階に山手線と玉電の改札口、3階に銀座線の改札口、9〜11階には1002席規模の「東横ホール」が併設されるなど、駅直結の斬新な商業施設として大きな注目を集めた。また写真をみて分かるように、ファサードはコルビュジエに師事した板倉さんらしく、華美な装飾のないモダニズムなデザインが特徴的である。
建物の壁面には「全店サンシャインセール 中元大売出し」の看板が見えることから、暦の上ではおそらく7月頃だろう。五輪開幕に向けて気分を高めるべく、中央にはグラフィックデザイナー・亀倉雄策さんの代表作として知られる「1964東京五輪」の大きな広告が掲出されている。「太陽」と「日の丸」を連想させる大きな赤い円、その下には「五輪マーク」と「TOKYO1964」を金一色で配したシンプルなデザイン。東から昇るライジングサンは、焼け野原の終戦から20年足らずで復興を成し遂げた「日本人の力強さ」を、世界にアピールするメッセージ性すら感じさせなくもない。もしかすると、中元大売り出しの「サンシャインセール」というネーミングも、この亀倉氏の公式ポスターデザインに合わせて練られたものかもしれない。
建物の下部をよく見てみると、ギラギラと輝く太陽をデザインした「サンシャインセール」のポスターが、いくつも並べて貼り出されているのが分かる。また駅に到着する人を待っているのだろうか、駅前に多くの自動車が停車しているのも当時ならでは光景と言える。

建物以外にも目を向けてみよう。当時、駅広場にはシダレヤナギの街路樹が見られるが、「銀座の柳」をはじめ、かつて東京の繁華街には柳を植えることが多かった。こうした背景には、挿し木で容易に増やせること、さらに水に強く川や海沿いでも育ちやすく根が細く密集しているため、土が水に流されるのを防ぐ役割も果たしていた。確かに渋谷駅はスリバチ地形の一番底に位置し、大雨時は冠水することも多かったため、水に強い柳は好都合な街路樹であったのかもしれない。
2017年10月9日撮影(撮影者=佐藤豊)
ところが現在の渋谷駅の写真を見ると、柳はすべて桜に植え替えられ、時代と共に街路樹のトレンドも移り変わっていることが分かる。

もう一つ、見逃せない点がある。それは「忠犬ハチ公像」の場所だ。現在、ハチ公像は東急百貨店西館の一番右、渋谷マークシティ側に設置され、JR渋谷駅方面を眺める格好で座っている。ところが、もう一度、1964年のモノクロ写真をみてもらいたい。当時の写真には、その場所に「忠犬ハチ公像」はない。ではハチ公像は一体どこにあるのだろう? 写真をじっくり見てもらえれば分かるのだが、左下の隅に僅かにハチ公の顔らしきものが写っているのだ。左隅をズームアップした写真が下である。
きっと撮影者もフレーム内にハチ公像を一緒に入れよう、という意図は全く無かったことだろう。このハチ公の写り込みで明らかなように、その当時、ハチ公像は広場中央に設置され、渋谷スクランブル交差点側を眺める格好で座っていた。「あの日の渋谷」企画で画像協力を頂いている渋谷区郷土写真保存会副会長で、写真家の佐藤豊さんの話によれば、1964年の東京オリンピックに向けて「ハチ公前広場」は広く整備が行われたという。「開催直前に広場に噴水が作られ、その脇にはオリンピック旗と日の丸を掲揚する掲揚塔が設置。ハチ公の顔はスクランブル交差点側を向き、噴水の後方に移動されるなど、ハチ公は噴水越しに交差点を臨んで座っていた」と佐藤さん。その後、噴水はハチ公前広場のシンボルとなり、テレビドラマのロケでもよく使われていたという。また、ある時には「若者がいたずらで噴水に洗剤を入れたことがあり、噴水の作動により泡がどんどん出来てしまい、広場が大騒ぎになったこともあった」と当時の珍事件を振り返った。

「ハチ公像」と「噴水」に加えて、現在のハチ公前広場と大きく異なるのが「交番」の位置である。広場には地下に降りる階段があるが、1962(昭和37)年にその階段の反対側に、スクランブル交差点方面に出入口のある「交番」が建設。佐藤さんによれば、五輪開催中には毎日、多くの人びとがこの交番を利用していたそうだ。その後、ハチ公前広場のスペース拡張工事に伴って、交番はJR山手線のガード脇の現在位置へと移動している。「交番」の移動と共に場所と顔の向きが変わったのが「ハチ公像」だ。「ハチ公物語」といえば、「改札口から飼い主の上野教授が出てくるのを待っていた」というエピソードは誰でも知るところであるが、駅から出てくる教授を待っていたにも関わらず、ハチ公が駅に尻を向けてスクランブル交差点側を向いていたのでは、どうも都合が悪い。そういった声を反映してか否か、広場のスペース拡張工事の際には噴水が撤去され、ハチ公像の場所や、顔の向きも現在の格好に見直されたという。ところが、今の定位置もハチ公にとっての終の棲家ではない。
2027年のハチ公前広場イメージ(画像提供=渋谷駅街区共同ビル事業者)
現在、渋谷駅周辺では大規模な再開発が進んでいるが、2027年までにJR渋谷駅をはじめ、東急百貨店西館・南館、さらにハチ公前広場もすべて一新されることが決まっている。シンボルであるハチ公が居なくなることはないが、 忠犬ハチ公像をどこに置くかはこれから検討していくそうだ。

<バックナンバー>
・「あの日の渋谷」Vo.1テーマ:「代々木競技場」(2017年11月21日掲載)
・「あの日の渋谷」Vo.2テーマ:「原宿駅」(2017年12月28日掲載)

編集部・フジイタカシ

渋谷の記録係。渋谷のカルチャー情報のほか、旬のニュースや話題、日々感じる事を書き綴っていきます。

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