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今昔写真から振り返る「あの日の渋谷」vol.2
テーマ:「五輪を控える原宿駅」

「あの日の渋谷」は、「昔」と「今」の渋谷の写真から渋谷のまちの歴史や変遷を振り返るフォトギャラリー。昔の写真を改めて見直してみると、当時の渋谷の街並みや、人びとの暮らし、ファッションの流行などが見えてくる。そして、様々な変遷を経て、今日の渋谷に繋がっていることがよく分かる。この企画では「昔」と「今」の渋谷の写真を見比べながら、懐かしい渋谷のまちの歩みを振り返ると共に、昔の写真の中から「新しい発見」や「気づき」を見つけていきたいと思う。第2回目となる今回は、1964年(昭和39年)の東京五輪開催を間近に控え、着々と準備が進む「原宿駅」の風景に注目してみたい。

そもそも原宿駅は1906(明治39)年に日本鉄道品川線(現在の山手線・赤羽線)の駅として開業し、1909(明治42)年に山手線に改称。関東大震災の翌年の1924(大正13)年に渋谷駅寄りにホームを移し、二代目となる現在の駅舎が竣工。その後、東京大空襲を乗り越えた同駅舎の築年数は93年間を数え、東京都内で現存する木造駅舎の中で最も古い建物となっている。設計したのは当時の鉄道省技師の長谷川馨さん。関東大震災で焼失した煉瓦造りの「二代目横浜駅」(1916年竣工)なども手掛けるなど、ヨーロッパの建築様式に影響を受けた若手技師の一人。北方ヨーロッパの「ハーフティンバー様式」と呼ばれる木造建築を採用した駅舎は、柱や梁(はり)、筋違(すじかい)、窓枠などの骨組みを隠さず、そのまま装飾材としてむき出しにする。骨組みの間は漆喰の白壁で仕上げ、風見鶏が付いた小さな尖塔付きの屋根が大きな特徴だ。今日、原宿は多くの若者たちで賑わっているが、大正ロマンを感じさせる可愛らしい駅舎は「まちのシンボル」として世代を超えて広く愛されている。
写真提供=渋谷区郷土写真保存会
さて、今回振り返る上記の写真は、1964年10月10日開幕の「東京五輪」を数日後に控える原宿駅前の風景だ。
写真中央を拡大したもの。 写真提供=渋谷区郷土写真保存会
今と変わらぬ原宿駅の駅舎の姿が見えるが、写真奥を拡大してみると、建物外の左側には「きっぷうりば」が4、5…と7つ並んでいる。当然のことながら、現在のような自動券売機ではない。学ラン、学帽の学生さんたちの姿も見られる。

一番始めの写真手前には、小さなボックス型の建物があるが、その看板に「WELCOME TO SHIBUYA INFORMATION CENTER SHIBUYA WARD OFFICE(ようこそいらっしゃいました オリンピック案内所 渋谷区役所・渋谷区オリンピック協力会)」と書かれている。選手村をはじめ、代々木競技場、国立競技場などの最寄りである原宿駅は、渋谷駅と同じく東京五輪会場へのアクセス拠点の一つ。国内外から訪れる多くの観戦者や観光客、関係者に向けて、「オリンピック案内所」の設営が進められているのが分かる。

案内所前には、軽自動車「三菱360ライトバン)」が停車している。ドアノブは前方に付いていて、今では珍しい「前開きのドア」であることが分かる。当時、庶民にとってマイカーはまだ高嶺の花であったが、商用車として「三菱360ライトバン」「スズライトバン」などの軽自動車の利用が徐々に増え始めた時期でもあった。一般庶民にマイカーブームが起こり始めたのは、五輪後のいざなぎ景気に伴う60年代後半から。五輪を契機に幹線道路や高速道路などの整備が進んだことも後押した。当時を知るカメラマンの佐藤豊さんは「軽でもライトバンを使える所は結構大きな企業。一般の小規模企業や商店などでは軽の3輪車が多く使われていました。特に『ダイハツのミゼット』という3輪の車両が街をよく走っているのを覚えている」と懐かしむ。

ライトバンの車体をよく見ると、「日本電信電話公社(現、NTT) 青山電話局」の文字が書かれていることから、おそらく建物前にしゃがみ込んでいる男性は電話局員さんで、案内所に電話を引くために工事を行っている最中ではないか想像される。またモノクロ写真のため、車のカラーは定かではないが、佐藤さんによれば「電電公社の車は、確か緑色だった」という。

案内所の隣には「COFFEESHOP(コーヒーショップ)」と書かれた白い建物がある。大きな窓ガラス、斜めにデザインされた屋根など、現在のカフェと遜色ないオシャレな雰囲気が漂っているが、こちらも五輪に向けて建てられた店舗なのだろう。駅側のカフェ屋根の先には「KOSAI…」という文字が僅かに見えるが、これはおそらく「KOSAIKAI(鉄道弘済会)」と書かれていると推測される。鉄道弘済会は、旧国鉄の勤続退職者やその家族・遺族および殉職者の遺族を救済するための財団法人で、国鉄時代にはキヨスクなども直営していた。現在、JRのエキナカには「BECK'S COFFEE SHOP」などの直営コーヒーショップがあるが、五輪に向けて弘済会が運営していたと思われる「COFFEESHOP」はその先駆的なショップと言えるだろう。数日後には多くの人びとと歓喜に包まれるだろう原宿駅前で、開幕に向けて着々と準備が進んでいる様子がうかがえる貴重な一枚と言える。
撮影=佐藤豊
次の写真は「現在の原宿駅前」の風景だ。多くの人びとが行き交う街の様子は、まるで毎日が五輪のような賑わいを見せている。半世紀前との大きな違いは人の量ばかりではない、1972(昭和47)年に千代田線の霞ヶ関〜代々木公園間延伸に伴い、明治神宮前駅が開業して原宿駅表参道口前に2番出口が新設されている。写真手前に白く光るライト部分がそれだ。2008(平成20)年には副都心線の乗り入れも始まり、JRとの乗換駅として以前よりも乗降客数が増加している。地下鉄2番出口と原宿駅表参道口の間には、弘済会から事業を引き継ぐ「JR東日本リテールネット」が運営するコンビニエンスストア「NEWDAYS」があったが、現在は工事の白い仮囲いが設けられている。これは原宿駅の大規模な改良工事に伴うものだ。東京五輪まで2年半余りに迫る中、JR東日本は2020年までに現在の原宿駅を改良し、線路及びホーム上に2層の駅舎を新設する計画を明らかにしている(JR東日本発表のプレスリリース)。確かに五輪開催を考えれば、既存駅舎やホームでは十分なキャパシティを確保できず、大変な混雑が予想される。こうした課題を解消するためには、コンコース、改札口、トイレ、エレベーターなどの増設が必須となる。その一方で、渋谷区民などからは原宿のシンボルであり、都内最古の木造駅舎の存続を危ぶむ声も少なくない。一応、新駅舎は既存駅舎に隣接する形で建設されるが、歴史ある建物を存続するか否かは五輪後に検討して決められるという。

もう一つ、昔と今の写真で異なるのが2番出口後方に見える「神宮の森(杜)」の鬱蒼とした木々のボリュームだ。ご存知の通り、明治神宮の森は1920(大正9)年に植林された人工の森であるが、前回五輪時には写真に写り込むほどのボリュームがなかった。歳月の長さを、森の成長からも感じ取ることが出来る。「100年の森」と「100年の駅舎」、流行を先行く若者のまちに一見似つかわしいが、そのギャップがまた原宿の街の魅力とも言えるだろう。大規模な改良工事で既存駅舎の行く末が気になるが、何とか「まちのシンボル」として保存できる道を模索してほしい。

>「あの日の渋谷」vol.1 テーマ:「代々木競技場」(2017年11月21日掲載)
渋谷文化の姉妹サイト「渋谷フォトミュージアム」で、特集企画「渋谷が変貌 東京五輪1964」を掲載中。ぜひそちらも併せてご覧ください。

編集部・フジイタカシ

渋谷の記録係。渋谷のカルチャー情報のほか、旬のニュースや話題、日々感じる事を書き綴っていきます。

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