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「渋谷」をゼロから学ぶ −ハチ公バスから眺める「渋谷」の風景 その2

渋谷素人の私が、「渋谷」を知るために始めた「ハチ公バスの旅」の第二回目。渋谷区が運営するコミュニティバス「ハチ公バス」のルートは、「丘を越えてルート(上原・富ヶ谷方面)」「神宮の杜ルート(神宮前・千駄ヶ谷方面)」「春の小川ルート(本町・笹塚方面)」「夕やけこやけルート(恵比寿・代官山方面)」の4路線。前回、第一回目でご紹介した「丘を越えてルート(上原・富ヶ谷方面)」はその名前通り、渋谷の凸凹とした地形や、バラエティー豊かな街並みを体感できる「渋谷の奥深さ痛感コース」だった(詳しくは前回の記事をご覧ください)。

第一回:丘を越えてルート〜上原・富ヶ谷方面(2015.12.24)

さて、第二回はどのルートにしようかな……と、「ハチ公バス」のHPでそれぞれのルートを眺めてみる。残りの3ルートは、「丘を越えてルート」に比べて、どれも少々長めのルートのようだが、今回は「神宮の杜ルート」を選択することに。
参照:渋谷区コミュニティバス ハチ公バス「神宮の杜(もり)ルート」

このルートは国立代々木競技場、明治神宮、表参道、青山通り、東京体育館と東京の観光名所を回っているようだ。いくら渋谷素人の私でも、このあたりは何度も足を運んでいて、見慣れたところばかり。少々ルートが長くても、知った場所であれば、大変さも軽減されるはず!というのが第二回に選んだ理由である。むしろ、見慣れた場所すぎて、新たに発見できることがあまりないのではないか、と心配していたが…。実際に取材を終えた今となっては「これはトリのルートにするべきだった!」と悔やむほど、壮大な渋谷の今昔物語が内包されたルートだったのだ。

では、「神宮の杜ルート」をご紹介することにしよう。

ハチ公バスから眺める「渋谷」の風景
第二回:神宮の杜ルート〜神宮前・千駄ヶ谷方面〜 (前編)

スタートは「1.渋谷駅」。ハチ公改札口にある喫煙所の脇にその停留所がある。「神宮の杜ルート」を行くバスの車体は青く、後方には富士山を型どったマークの中央に「Q」と描かれた富士急ハイランドのロゴ(現在は富士急グループのロゴとして使われている)が記されている。
「神宮の杜ルート」は渋谷区がフジエクスプレスに委託して運営されているバスである。あの遊園地の富士急が、バスも運営していることを初めて知る。
バスはここから出発して、渋谷駅西口のバスロータリーをぐるっと回って逆方向に進路をとり、109メンズ館とTSUTAYAの間を通って、まっすぐ北上していく。見慣れた渋谷の風景が両脇に広がる。バスは、東京電力横の「4.電力館前」に停車。停車名になっている電力館は2011年3月20日にリニューアルオープン予定であったが、同年3月11日に起こった東日本大震災の影響を受け延期となり、そのまま閉館となっている。現在は、隣に本社をもつシダックスが借り受け、「カルチャーワークス」というカルチャースクールとスポーツクラブが融合した施設となっているそうだ。
バスは、そのまま北上し、渋谷消防署を左折、右手にはハローワーク渋谷と労基署が入ったビルが見えてくる。
坂を登りきると、目線の先に見慣れた景色が広がる。左手には渋谷区役所、前にはNHK西口の門、右手には2.5次元ミュージカル専用劇場「AiiA 2.5 Theater Tokyo(アイア 2.5 シアタートーキョー)」と渋谷のランドマークたちが建っている。「2.5次元」とは聞き慣れない人も多いかもしれないが、漫画・アニメ・ゲームなどの世界を、ミュージカルなどの舞台作品化したもの。アニメファンはもちろん、最近では外国人旅行者の観光スポットとしても人気を博してるという。
さて、渋谷区役所前の交差点手前を右に曲がったところに公衆トイレがあり、その横にある停留所「5.渋谷区役所」に到着。区役所とその奥にある渋谷公会堂は建て替え工事中で、白いシートに覆われている。区役所は、先ほど通った東京電力と旧電力館があった場所から、1965年にこの地に移転。現在は、老朽化に伴い2015年10月より、宮下公園近くにある仮庁舎に移転している。新庁舎は2018年に竣工予定である。区役所と公会堂の奥に高層マンションも建つらしい。この見慣れた風景も2年後には様変わりしているというわけだ。
この停留所を出て左に曲がると、公衆便所で遮られていた視界がダーっと開け、目前に国立代々木競技場が見える。……いや、国立代々木競技場の上に広がる「渋谷の空」が見えた。東京という地で、こんなに何にも遮られず広々とひろがる空を見るのは久しぶりだ。「6.国立代々木競技場」で降り、この建築物に近づいてみることにした。
停留所脇にある駐車場から入り、階段を登ると、国立代々木競技場第一体育館が厳かに建っていた。ああ、今日はなんて天気がいいだろう。体育館の周りは、ちょっとした散歩コースになっているようで、人々がのんびりと過ごしている。外国人観光客たちがカメラを第一体育館に向けている様子もうかがえる。こちらの建築物は、私がここで言うまでもないのだが、建築家・丹下健三の傑作である。離れた場所からランドマークとして眺めたことはあるものの、こんなに近くから見たのは初めてだ。少し高台に建っていることもあり、周りに空と体育館を邪魔するものは何もない。代々木第一体育館を見ているはずなのに、どうも「空」を見ているようだ。渋谷のど真ん中に、こんなに空を感じられる場所があるなんて…とても優雅な気持ちになる。凪ぎの刻に再度来てみたいと思う。
左を向くと第二体育館と、その奥にはNHK放送センターが見える。もっとのんびりしたいところだが、ルートの順番ではこの停留所はまだ「6」であり、序盤も序盤だ。先を急ごう。
階段を降りて、停留所に戻りバスを待つ。競技場の向かいには「岸記念体育会館」が建っている。岸記念体育会館は日本オリンピック委員会や日本体育協会、他多くの国内競技団体の本部が入ったビルである。1941年に神田に建てられた岸記念体育会館が、この地に移ってきたのは1964年の東京オリンピック直前のこと。今年、老朽化に伴い、神宮外苑地区に建て替えが決定している。2020年の東京オリンピックに向けて、新国立競技場が建設される地区へ引っ越すというわけだ。この建物の地下1階には日本体育協会が管理する資料室があり、一般の人も閲覧可能とのこと。「へぇ、ちょっと寄ってみるか。」と思っていたらバスが来た。そうだ、先を急ぐのだった。
バスは、岸記念体育館前交差点を左折、線路沿いを原宿駅目指して進む。線路脇の歩道では雑誌の撮影だろうか、女性のモデルがレフ板をあてられている。前をみると、青い「渋谷区神園町」と書かれた陸橋が見えてきた。いよいよ「神宮の杜ルート」のメインテーマに入っていく。バスは「7.原宿駅入口」「8.明治神宮」と細かく停車。もちろん私はバスを降車した。
平日だというのに、カメラをもった観光客や学生や親子連れで、どこも溢れていた。この地点は、代々木公園、明治神宮、原宿という繁華街、の3つの場所の接合点であり、入口である。全く異質な層の空間が隣接しているのは改めて不思議だ。観光客の流れに乗り、明治神宮の森に近づいてみる。
明治神宮の大鳥居の前に立つ。木製のものとしては日本最大であるという巨大な鳥居である。樹齢1500年の檜を使って作られたもので、高さ12m、幅17m、柱の太さは1.2mもある。鳥居の前で、この先がどうなっているのかなぁと、観光客に混ざって渋谷区の地図を広げてみる。地図を見ると、明治神宮は、渋谷区の中心部に位置していることに気づく。と同時に、予想以上の専有面積を占めていることに大変驚く。明治神宮は総面積約70万平方メートル、東京ドーム15個分もあるのだ。地図を見ると、渋谷区の中央が緑で埋まっている。この地点にいるだけでは、その広さに気づくことができない。まさかこの奥に、こんな巨大な森が広がっているとは驚きだ。この広さは、後のルートで改めて実感することになる。
山手線脇に広がる森を横目に表参道へと歩き出す。「9.明治神宮前駅」も通り過ぎ、この街並みを歩いてみることにした。
表参道は東へ、ただただ真っ直ぐに延びている。この直線への気持ち良さは、脇に植えられた欅(けやき)並木によって上増しされている。明治神宮への参道であるこの道は1920年、明治神宮の創建に合わせて誕生し、翌年に欅並木も植林。だが、1945年4月の東京大空襲で本殿が焼失、同年5月に欅並木の大部分も失った。神宮の本殿は1958年に再建され、この欅並木も神宮創建の際に関わっていた人たちの私費によって、1950年に植え直されたものである。
ここまできて「そうか…」と思う。私が今たどってきたルートの「渋谷」は、戦争とその後の東京オリンピックなくしては語ることのできない場所なのである。

明治神宮は1920年に明治天皇と昭憲皇太后を御祭神として創建されたものである。この大正に創られた「鎮守の森」が終戦までに果たした役割は、明治国家の歴史と切り離して考えることはできないだろう。帝国の守り神として機能していた明治神宮はB29の集中砲火を浴び、本殿も含め多くの建物が被災したが、同時に多くの人の避難場所ともなったという。常緑広葉樹でできたこの森は火に強く、森が人々を守った。森は戦火を逃れて残ったのである。
代々木公園のあたりは、終戦まで日本陸軍の練兵場があった場所。終戦後は、米軍やその家族らが住むワシントンハイツとなり、裕福な将校クラスが住んでいたそうだ。将校たちは美しく整えられた表参道を通り、GHQ本部へ通勤した。彼らの影響で原宿はインターナショナルな街へと変化していく。表参道にある「キディランド」や「オリエンタルバザール」は、ワシントンハイツの住人に向けた店として営業を始めたことは有名な話である。
1963年の東京オリンピック開催前年に、ワシントンハイツは日本に返還され、オリンピック選手村、国立代々木競技場、国際放送センター、渋谷公会堂になる。オリンピック後の1965年には国際放送センターにNHKが移転し、渋谷区役所も同年に今の地に移転。選手村は整備され、現在の代々木公園が生まれる。渋谷は東京オリンピックを契機に、戦前では想像をしえなかった大変貌を遂げるのだ。

表参道をまっすぐ歩く。この街並みを歩いても、戦争や占領の匂いは一切感じられない。街行く若者たちのほとんどが、この街にそんな歴史があることを知らないだろう。原宿はそんな歴史の記憶を洗い流しているように思う。原宿は繁華街でありながらも、1957年に東京都の文教地区に初めて指定された街として知られる。これは、町会の人の尽力もあってのことだと聞いている。明治神宮という聖地の門前町として栄え、戦争により焼け野原となり、米軍により占領され、そして異国情緒漂う街になった。東京オリンピックで飛躍すると同時に、この街並みに惹かれたクリエイターたちが集まる街へと変化してきた。そのように歴史の流れと共に様々と様相を変えてきたこの街は、その時々により住む人たちの手によって作りあげられてきた街なのである。原宿が、新宿と渋谷の間にありながら、この2つの街とはまた異質な空間として存在し続けたのは、明治神宮とこの地区を守ろうとした住民の存在に他ならない。明治神宮という森と、原宿という繁華街、この異質な場所が隣り合わせに存在するのは一見理解し難いが、それは必然であったのだろう。それを、この街の歴史の中に確認する。
戦争の記憶は感じられないと先に書いたが、ここにはそれを感じられるものが今でも残っている。表参道ヒルズ前にある一本の欅は、戦火を逃れた木だ。樹齢90年になる。また表参道交差点にある、みずほ銀行脇には慰霊碑が建っている。空襲により明治神宮に逃げた人は一命をとりとめたが、青山方面に逃げた人は戦火から逃れることができず、多くの人が息をひきとったそうだ。
美しい欅並木を改めて眺めてみる。この街は歴史が幾重にも幾重にも重なりあってできた街だったのである。そんな巨大な物語を感じながら、買い物帰りの客とともに「11.表参道ヒルズ」にてバスに乗車。バスは表参道交差点を左折し、青山通りを走る。

(次号後編へと続く)

小原明子

1981年生まれ。東京が好きだ。上京して15年ほどになるが、初めて東京に降り立ったときから、現在までずっと魅了され続けている。では、渋谷は? 「渋谷先輩のことを、私が好きか嫌いか判断するなんておこがましいです…」とつい機嫌をうかがってしまう。渋谷という街に私はいつも試されている。気を許せない。そんな気がする。苦手な先輩というイメージだったが、今回、思い切って先輩の懐に飛び込んでみようと思う。結果、一本背負いで投げ飛ばされるのか、抱きしめられるのか、はたまた予想外のことが起きるのか。チャレンジ渋谷1年生。

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