★『あえかなる部屋』トークショウに出ます★
9/25fri 映画『あえかなる部屋』(シアター・イメージフォーラム)21:00〜映画上映後に中村佑子監督とトークショウいたします。
http://aekanaru-movie.com
内藤礼さんと西沢立衛さんの協働による《母型》豊島美術館。
内藤礼さんのアートの本質である「生きていることは、それ自体、祝福であるのか」という問いに、内藤さんにはカメラを向けずに迫る。。。
公式サイトにコメント寄せました。パンフレットにも文章寄せました。
内藤礼の作品と美術館という制度。 内藤礼の作品群と自然界に既存しているものたち。 特殊性と普遍性。 個人と人類。 存在と非存在。 そして、アートと映像。 それぞれの「瞬間」と「永遠」の定義。 それらを初めて気が付いたような態度で『あえかなる部屋』は全てを告発する。 しかしそれらはアートや映像が生まれた時からの宿命であった。 ヴィヴィアン佐藤(美術家)
案1: 世界にいくつかの裂目が生まれ、調停というかたちで、その判例のない激しい判決をそこに見る。 内藤礼さんの作品と美術館という制度。 内藤礼さんの作品群と自然界に既に存在しているものたち。 特殊性と普遍性。 個人と人類。 存在と非存在。 そして、彫刻作品と映像作品。 それぞれの「瞬間」と「永遠」の定義という決定的に歩み寄れない相違。 永遠に分かりあえないふたつのものたちは、しかしそれだけで自立はない。 いや、その二者のあいだに横たわる裂目そのものを描くこと。そもそもそれが彫刻作品であり映像作品であったはずだ。
案1−1: 世界にいくつかの裂目が生まれ、調停というかたちで、その判例のない激しい判決をそこに見る。 内藤礼の作品と美術館という制度。 内藤礼の作品群と自然界に既に存在しているものたち。 特殊性と普遍性。 個人と人類。 存在と非存在。 そして、彫刻と映像。 それぞれの「瞬間」と「永遠」の定義という決定的に歩み寄れない相違。 永遠に分かりあえないふたつのものたちは、しかしそれだけで自立はない。 いや、その二者のあいだに横たわる裂目そのものを描くこと。そもそもそれが彫刻であり映像であったはずだ。
案2: 内藤礼の作品と美術館という制度。 内藤礼の作品群と自然界に既存しているものたち。 特殊性と普遍性。 個人と人類。 存在と非存在。 そして、彫刻と映像。 それぞれの「瞬間」と「永遠」の定義。 『あえかなる部屋』は、あらゆる裂目そのものを哀しさで浮かび上がらせることに成功した。
案2−1: 内藤礼の作品と美術館という制度。 内藤礼の作品群と自然界に既存しているものたち。 特殊性と普遍性。 個人と人類。 存在と非存在。 そして、彫刻と映像。 それぞれの「瞬間」と「永遠」の定義。 『あえかなる部屋』は、映像という媒体が生まれた瞬間に負ってしまった古傷を再び浮かびあがらせてしまった。
案3: 『あえかなる部屋』は、彫刻と映像がこの世に生まれでた時に負ってしまった傷を再び白日の下に曝した。 案3−1: 『あえかなる部屋』は、彫刻と映像という領域が、この世に生を受けた時に負ってしまった傷を、その治り掛けていた傷をもう一度深くえぐる。
案4: 必要としながら傷つけずにはいられない、まるで恋人同士のような彫刻と映像の関係をそこに見る。
案5: アート、美術館の制度、人工、自然、特殊、普遍、個人、人類、存在、非存在、彫刻、映像、瞬間、永遠、、、それらを初めて気が付いたような態度で『あえかなる部屋』は全てを告発する。しかしそれらは彫刻や映像が生まれた時に生じた犯罪であった。
案5−1: 内藤礼の作品と美術館という制度。 内藤礼の作品群と自然界に既存しているものたち。 特殊性と普遍性。 個人と人類。 存在と非存在。 そして、彫刻と映像。 それぞれの「瞬間」と「永遠」の定義。 それらを初めて気が付いたような態度で『あえかなる部屋』は全てを告発する。しかしそれらは彫刻や映像が生まれた時からの原罪であった。
案6: すべてのアートは敗北するために存在意義があるとするならば、『あえかなる部屋』はその存在意義を、同期を人類において初めてのように告発する。しかしそれらは彫刻や映像が生まれたときからの原罪であった。
ヴィヴィアン佐藤(非建築家)
非建築家、アーティスト、ドラァククイーン、イラストレーター、文筆家、パーティイスト、、、と様々な顔を持つ。独自の哲学と美意識で東京を乗りこなす。その分裂的・断片的言動は東京では整合性を獲得している。。。なんちゃって。