★『マイノリティとセックスに関する、極私的恋愛映画』から考える、映像と肉体の信憑性★
佐々木監督の『マイノリティとセックスに関する、極私的恋愛映画』のトークショウゲストとして出ました。ただいまアップリンクでアンコール上映中です。4/3friまで。
今回の映画は完成版で、三部構成。
第二部部分が『裸over8』というオムニバス短編映画の一つとして『マイノリティとセックスに関する、2、3の事例』という題名で、2008に公開され たもの。今回はその前後に第一部と第三部を加えて、題名も『マイノリティとセックスに関する、極私的恋愛映画』と変更されました。2008年の作品は当時 劇場で鑑賞し、トークショウにも出させていただきました。その際、映画終了後この映画が完全なドキュメンタリーではなく、架空の映画監督の撮ったドキュメ ンタリー風なフィクションだということを聞かされ、大変驚いた。
前作『Fragment』(2006)は、アメリカ多発同時テロで衝撃を受けた若い僧侶を追ったドキュメンタリーで、しかしその追い方は非連続で、文字通り断片的。映画を見たある観客はその全体像をつかむことができず、描かれた情報の一連のものを見たがったという。
よく私が話すことのひとつとして、特にドキュメンタリーの場合、扱われている素材と映像作品は全く別であるということ。もしくは全く同じということが挙げられます。
私たちはドキュメンタリーというと、そこには真実の情報が写っていると思いがちです。これはテレビのニュースや報道番組でも同じですが、私たちは素材やその情報を見ているようでいて、実は映像作品そのものを見ているのです。そのことが混同して捉えられがちなのです。
しかし、それをもっと突き詰めてみると、その素材やその情報を描くには、その描き方が一番適しているということがあります。一番の理想は描かれているものをどう伝えたいかが、その映像作品の形式に完全に合致している場合です。 映像作品の形式(スタイル)こそが最も言いたいこと(=素材)、となるわけです。
さて、今回の『マイノリティとセックス〜』に関しては、映画の鑑賞法は観客の完全な自由なわけですが、佐々木監督的には出演されている障害のある方の生き様や彼らの人間関係を伝えたかったわけではないようです。
その形式。ドキュメンタリーと言われているものは全てが正しいわけではなく、むしろ一度映像に収められたものは演出によりどうにでも変わりえるし、フィクションとも言えます。
2007年版の題名は、ゴダールの『彼女について私が知っている二、三の事柄』(1966)から取っていると思われます。『彼女について〜』では、郊外の 巨大団地に住んでいるある妻は昼間は夫に隠れて売春をしているという内容です。しかしそれらは風景とそれに被せられるナレーション説明によってのみ成され ます。この映画は「現実は撮影できないと表明すこと」に意義がある、という事を言いたいのです。
ゴダールはこの映画で、ESSOなど世界企業の看板を映る、ESSOのおかげで戦地のベトナムの様子を知ることができる情報のスポンサード化を指摘しま す。また、劇中「ショット」と「イメージ」についての実験も行われております。「ショット」は「イメージ」(企業広告)を破壊することができると。 「ショット」に映るものはすべて「現実」ではなく「イメージ」。逆説的に「イメージ」なくしては「ショット」も生まれない。ゆえに世界には「イメージ」し か存在せず、世界は「イメージ」によって作られるという悲しみを表した作品でもあるのです。
もう一つ興味深いところは、至る所にパリ拡張のため工事の車が入り込んで、街の際に穴を穿ちます。拡張される世界を生き残るためには余白を通る以外ない。 要するに「自分を売ること」、「身売りすること」。世界は売春宿で、生きるためには自分を売る売春行為が必要性。売春の普遍化を言っております。
さて、この佐々木監督の『マイノリティとセックスに関する〜』では、昨今のドキュメンタリー映像やニュース番組などの信憑性や正当性は、もはやあり得ないという立場から制作されています。 しかしこの映画が面白いところは、不具者の肉体を、非道徳的に映るかもしれませんが、それを見たいという私たちの欲望を露わにします。いわば私たちは売春 婦を買ってしまうわけです。売春婦(不具者)は全員が本物のはずですが、実は本物であるという保証はありません。それらは「ショット」による「イメージ」 に過ぎないわけですから。
ここでトークショウにも話題に出しました、ハリウッドアカデミー賞で話題になった二本の作品『博士と彼女のセオリー』と『6歳のボクが、大人になるまで』を比較したいと思います。 ハリウッド映画と、渋谷アップリンクで上映されているこの『マイノリティとセックス〜』が地続きであるかどうか、、、同時代性という問題では全く同じ地平にあるかと思われます。それは「真実の肉体性」の問題です。
『博士と彼女〜』では主演のエディ・レッドメインがホーキング役を熱演し、アカデミー初演男優賞を受賞しました。世間はいかに障害者の役を上手くすること には寛容であり、評価が高いか。これは「真実」を見たいということではなく、その役者の熱演=嘘(嘘の肉体)が評価されることを意味します。
もうひとつ、『6歳のボクが〜』では主演エラー・コルトレーン(役名:メイソン)くんが6歳の時から少しずつ年をとって青年になるという話で、あえて劇的 な出来事はなく、彼の人生が淡々と描かれて行きます。年に数日しか取らないその手法は、少年の成長をまざまざと見せつけられ、世界中を驚嘆させました。こ の映画の評価は、物語性=嘘ではなく、少年の成長過程にあります。これは「真実」(真実の肉体)です。 (このような映画はトリュフォーもすでに行っているので、私は特に評価はしません。)
さて、ではこの佐々木監督の『マイノリティとセックス〜』においては、障害者の肉体は真実ですが、彼は劇中演技をしております。ある箇所は自分自身、ある箇所は台本を演じております。 彼の恋人であるはずの若い女性は完全に女優ですし、第一部で統合失調症の役(かつては同病氣だったという)をしている役者さんも、架空の自身が起こしたといわれる事件についてトラウマ的な話をします。完全な演技です。しかし、障害者である門馬さんの喫煙する仕草や、女優の立ち振る舞い、統合失調症を演じている舞台役者の喋り方の癖、歩き方の傾向は紛れもなく、もともとの肉体にこびり付いたものです。それは紛れも無い肉体の真実なのです。
ドキュメンタリーの中の「嘘」と「真実」。劇映画の中の「嘘」と「真実」。 小学校では障害者の生徒のモノマネをしたら怒られます。
しかし、スクリーンの中だけの上手すぎるモノマネは、世界的に評価されるわけです。これは飼いならされた売春であり、飼いならされた見世物小屋です。
話は変わりますが、先日富山でゴースト作曲家として有名になってしまった新垣隆氏とご一緒しました。 「あの事件」は、偽装の問題とPC(パブリックコレクトネス)の問題とが絡み合っているわけですが、新垣さんと数時間一緒にいて分かったことは、彼の肉体性は大変脆弱だということでした。 一方、佐村河内氏は当時、盲目で難聴とのことですが、そのテレビやマスコミ媒体の中の「ショット」から生ずる「イメージ」は非常に強い肉体性を帯びております。
しかし、新垣氏にはテレビ、マスコミ媒体で「ショット」による「イメージ」の肉体性はそれほど強くはありません。大変弱いものです。
「音楽」の説得性、存在ですら「イメージ」という問題になると、発信者の「肉体性」が必要となるのです。
また、映画におけるインデックスの問題もあります。題名の付け方です。
インデックスと中身は同一だとする見方です。
この映画のタイトルにおいて使用されている「マイノリティー」とは?「セックス」とは? 「マイノリティー」という呼称は、たったひとつの属性に過ぎません。人間や事物、出来事はそもそも多面的で、様々な属性を有しております。
ですから、この映画の属性もたったひとつでは有り得ず、実は様々な側面があることに気付かされるのです。
アンコール上映『マイノリティとセックスに関する、極私的恋愛映画』
〇公開:上映中〜4/3(金)
〇劇場:渋谷・アップリンク
〇料金:1,300円
〇上映:85分
〇公式:http://www.uplink.co.jp/movie/2014/34658
ヴィヴィアン佐藤(非建築家)
非建築家、アーティスト、ドラァククイーン、イラストレーター、文筆家、パーティイスト、、、と様々な顔を持つ。独自の哲学と美意識で東京を乗りこなす。その分裂的・断片的言動は東京では整合性を獲得している。。。なんちゃって。