★会田誠×駕籠真太郎×内山紗千佳
×ヴィヴィアン佐藤×山崎春美★
成人式夜。
「山羊に、聞く?』にて、イベント『新続あるす・あまとりあ vol.2 〜反社会式う⚫︎こロジー〜』が行われました。
イベント最後に、会田誠さんと駕籠真太郎さんによる平面絵画と、その後に内山紗千佳さんによるパフォーマンスが行われました。
じつは結構面白い作品となりました。
一枚の布上に、肛門から排泄する 図を描いたふたつの平面絵画と、そのあと絵の具を浣腸で注入し肛門から排泄するパフォーマンス絵画。
平面による図像絵画とアクションによるパフォーマンス作品という全く次元は異なりますが、意味内容的に同等な行為が、同一平面上に時間差で繰り広げられ、 オーバーラップしました。(しかし言ってみれば、絵画を描くという行為もまた、脳内という肉体にある不可視ものを外部にひり出すという一種の排泄行為に他 ならないのですが、、、文章も同じ。) 視覚的な透明性ではなく、コーリン・ロウ的な「意味的な透明性」がそこで現れたのです。
幾つか気になるところを述べます。
まず、紙に描かれずに布地に描かれたということ。(紙より「包み込む」「なびく」という現象が起きやすく、より空間的、折り目がつきにくい点では反復的です。)
キリストのマグダラの聖骸布を連想させます。。
キリストの肉体や顔など具体的な物質こそは投影はされておりませんが、ドローイング的な図は後に行われるアクションの予言とも捉えることができ、肛門から排泄された絵の具(食紅???)は、恣意的理念的な絵画(落書き)を非恣意的なアクションで覆い尽くします。。
二作品の具象画は想像上のモデルを写し取ったものです。存在しない(キリストではない)モデルを線描により描き、その上から本来物質が排泄する場所から絵の具によるアクションペインティング。 排泄行為でもありますが、出産的なメタファーでもあるのです。
平面上に二つの絵画生まれ、その上に本来は大便という個体ではなく液体が放出。これはもしかすると堕胎。もしくは奇跡のような光景かも知れません。
(蛇足になったかもしれませんが、最後の最後に内山さんの身体の一部の人拓か何かを投影すれば、それこそマグダラの聖骸布の時間的な逆回転的のような作品となりました。私たちはあらゆる歴史を最後から逆回転としてしかみることはできません。)
そして押し流すこと。
この一種の洪水やカタストロフは、人間の創作活動、すべての営みや文明を押し潰すことです。 原子力発電や計画された近代都市が、災害や津波により押し潰されるメタファーとも取れます。
また、トイレの壁。
落書きと、それを鑑賞しながらの排泄行為。公共でありながら個室である一種の空間。これは密室演劇です。
少々、寺山修司的でしょうか?
あの吹き抜けはあの瞬間、巨大なトイレの個室と化したわけです。。上部が解放されている点でもまったく同じです。 そして、巨大な個室とは、逆に我々が縮小化、小人化してことにもなり、あのライブハウス全体が直腸化したことにほかならず、あの空間にいた人間全てが大便化したのです!
毎回このイベントでは山崎春美氏の「あまとりあソング」で幕が上がります。
氏の痙攣し絞り出すような歌声は、のちの排泄パフォーマンスに繋がっており、イベントの時間帯自体がひとつのトイレの密室個室の出来事。
個室に入り、下着を下げて、痙攣し、トイレの落書きを鑑賞し熟考し、排出し、下着を上げて、何食わぬ顔でトイレを後にする。
このイベントの参加自体が共同でトイレで用をたす行為の比喩であることは言うまでもありません。
イベントが終了し会場を後にした大便と化した観客やスタッフたちは、夜の代官山に排泄されていったわけです。
南無〜。
このイベントはまだまだ続きます。。。
内山嬢の排泄ペインティングと私のウィッグのなんという酷似!!!
嗚呼、世界は素晴らしきかな。。。
ヴィヴィアン佐藤(非建築家)
非建築家、アーティスト、ドラァククイーン、イラストレーター、文筆家、パーティイスト、、、と様々な顔を持つ。独自の哲学と美意識で東京を乗りこなす。その分裂的・断片的言動は東京では整合性を獲得している。。。なんちゃって。