★『ガレキとラジオ』★
『ガレキとラジオ』トークショウに出てきました。 南三陸町において震災2ヶ月後に震災ラジオ「FMみなさん」の軌跡を追うというもの。 素晴しい人物や偉業を成した人物やびっくりする様な事実が暴露される訳でもありません。(びっくりするシーンは幾つかありますが、、、)
この映画は普通の人の普通の生活を描いています。時には登場人物たちにかなり寄り添い、その友人的過ぎると思われる視線。まるでカメラはその地域に生まれ育った人物かと思ってしまうくらい自然に振る舞います。
いとうせいこうさんの16年振りの新刊小説『想像ラジオ』は、ラジオのディスクジョッキーが生者と死者に語りかけるという話。 池澤夏樹さんの小説『双頭の船』は、被災地を旅する方舟が、いずれ方舟自体が復興の街に変化していくという話。
この『ガレキとラジオ』と、いとうさんの小説『想像ラジオ』の設定の何と似通っている事か!!!このふたつの作品が現在生まれでて来る必然性とは。。。
ドキュメンタリーは「描かれているもの」と「映像作品」とはまったく別物。
ドキュメンタリー作品を見ると、多くの方はどうしても「描かれているもの」について語ってしまいますが、私たちが見ているものは「映像作品」そのものなのです。
その映像作品の成立ち法やその手法から「描かれているもの」との関連性や内容こそを語るべきなのです。。。
この映画においては「おと」や「声」が重要な役割を担っております。津波の音、鎮魂の花火の音、ラジオから流れる声、カラオケの唄声、、、そして死者たちの声にならない声、語り部としての「ぼく」の声。。。
古来から発せられた音の波動は、人間の耳は聞こえなくなっても、完全に消えることはありません。 ある星が現在存在していなくても、その星の光が何万年も前のもの彼方から届けられる様に。。。
有史以来発せられた音は、永遠にその痕跡を残しているはずなのです。生命体としての人間や文化もまた上書きされ多重に幾重にも重なっていくもの。
ラジオは丁度良い周波数に合わせたときに音声が聞こえるものだけではなく、その他の大多数の雑音と思われているノイズも聞くことも出来ます。じつは世の中 の音とはその無数のノイズと呼ばれているもので成立っています。もしくは世の中のほとんどは記述されない(され得ない)事柄で満ちているのです。
写真は南三陸町と呼ばれる前、志津川といわれていたときに家族旅行をしたときの写真です。 とても奇麗な海でした。
●FBコメント
これは「おと」に関する映画だ。鼓膜が破れる様な黒い津波の「爆音」。夜空に響く鎮魂の大輪の咲く「音」。カラオケの楽しい「唄声」。すべてを奪っていっ た津波に対する落胆・絶望の「溜息」。そしてラジオから流れる地元の人間による「声」。
死者たちの声にならない「声」。語り部の「ぼく」の存在としての 「声」。 津波に呼応する様にラジオの電波は、過去と現在と未来を繋いでいく。先祖の声と、いまを生きる声と死んだばかりの者の声、そしてこれから生まれてくる希望の声とを。それらは元々寄り添いすぐ隣りにあるものだが、ラジオによって輪郭を与えられているのかもしれない。。。
ヴィヴィアン佐藤(美術家)
●フライヤーコメント
これは「語りかける」ことで「物語を紡ぐ」話だ。 柳田国男の『遠野物語』九十九話に、津波で亡くなった死者と生前には話せなかった告白や和解のエピソードがある。 私たちは物語をまとって生きている。そ の物語はその土地の過去や身近な死者をも巻き込んで紡がれていく。。いまを生きている私たちは、過去の人間と対話する事ができ、未来の人間から影響を受け ている。ラジオの電波はその土地の「過去」と「現在」と「未来」の人々に語りかけてているのだ。
ヴィヴィアン佐藤(美術家)
公式HP http://www.311movie.com/
FACEBOOK http://www.facebook.com/garekitorajio
ヴィヴィアン佐藤(非建築家)
非建築家、アーティスト、ドラァククイーン、イラストレーター、文筆家、パーティイスト、、、と様々な顔を持つ。独自の哲学と美意識で東京を乗りこなす。その分裂的・断片的言動は東京では整合性を獲得している。。。なんちゃって。