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☆『ドキュメント灰野敬二』
神隠しにあった子供の物語☆

http://www.doc-haino.com/
灰野敬二さんのドキュメンタリー映画『ドキュメント灰野敬二』が渋谷桜丘のシアターNにて絶賛上映中です(〜8/31、連日16:30から)。灰野敬二(以下敬省略)は1952年生まれ。71年「ロスト・アラーフ」のヴォーカリストとして参加。自らがギターを持ち歌う、、、概成のロックや音楽に囚われない独自なスタイルで今日まで活動してきている。現在はソロとして活動。その存在のあり方や活動内容はまさに唯一無二のものである。
このドキュメンタリーは、その灰野の自身の独自な活動や音楽に対する姿勢をそれをまるで鏡に映し出す様に紹介して行く。灰野の幼少の頃からの思い出から音楽論や独自の哲学・倫理観まで、丁寧なインタビューを根底に、彼の活動内容、考え、手法にまで及ぶ。。。このドキュメンタリー映画自体が、灰野の性格や活動、姿勢を疑似シュミレーションしているようで、とても硬質なものとなっている。灰野自身のライヴ活動でMCは皆無であるし、インタビューや文章で自身の活動や音楽理論をいままで展開したことはほとんど無い。とても貴重である。

今年のあたかも熱帯雨林の様な酷暑の昼間に、映画館という冷房の効いた暗闇に、この映画を見ることの体験。体感的に公式発表よりいっそう高温で湿度が高く感じられる渋谷という雑踏に対して、この映画が上映されている映画館空間にには体温や色彩、匂い、湿度、いわゆる人間的/動物的なところが極度に少ない印象を与える。外界と文字通り反転されたネガ・陰画の世界が繰り広げられる様。。。そのいわゆる演出が無い(様な演出)がために「記憶」や「思い出」、「過去の時間」、「場所の痕跡」だけが際立ち、蘇って来る仕組みとなっている。。。反転された現実。ネガがあってポジという現実が存在する。

しかしその無彩色/無臭な世界は灰野自身のイメージの自己演出であり、じつは劇中は灰野の人間らしさ、可愛らしさ、無垢性というものが反って浮き彫りになっているところが興味深い。

映画は彼の生まれた頃の幼少の思い出から、幼稚園、小学校、中学校、高校と順を追って、その所々に所有の楽器のコレクションとその独自の解釈/エピソード、個人の思い出、そして実際のリハーサル風景、音楽理論や人生観、若い頃に描いた絵画作品、など多岐に及び、立体的・重層的にに灰野像を浮かび上がらせる。故郷のレコード屋で購入した名盤のレコードや友人や先生の薦められたその時代の音楽史に併走して、彼の超個人史的な流れのなかに文字通り楽器や音楽、哲学などの敷石をおいて、見る側はその川をジグザグに渡って行く様にこの映画は進んで行く。。。「同時代性」といっても熱狂する様な隣接感ではなく、どこか次元の異なるパラレルワールドの関係の様にもみえる。

いわゆる「カリスマ性」のあるミュージシャンなだけにその言葉の使い方も独特で、時には整合性が合っていない様な場面にも出くわす。しかしそのような細かいことはおかまいなしに、その説得力は見る側を圧倒し自身の世界観に惹き込んで行く。。。
彼の言葉の中で「一音、一音、違うことを容認する」「譜面に書けない音」「限定されてはいけない」「弾かされるのものではない」「人間で居る以上、個性が重要」、、、と哲学が続く。その「唯一無二」であり「譜面に書けない」という一期一会的な即興性しか信じていない上で成立している音楽なので、言葉の使い方もまたその時々で変化するものなのだろう。徐々に「特殊」と思われていた彼の存在が、とても真っ当で、「正当性」を帯びて来ることに気付く。。。世の中で「唯一無二」ではない人間や人生は有り得ないのだから。
そして、この映画をこの夏のある日に見るという私たち観客側の体験もまた「唯一無二」な経験として彼の理論に重なる。。。

さて、ドキュメンタリー作品の世界とは「扱われているもの(素材)」とその「映像作品」とは、まったく別物/別次元で、私たちは「映画」を見る=扱われている「素材」を見て、それ(「素材」)を語る傾向にある。。。しかし私たちが見ているものはまぎれもなく「映像作品」の方で、扱われている「素材」を語るだけでは大きなところが見落とされている。

たとえば、カレーを食べて、その扱われている食材を議論するだけではなく、その料理人のその料理に対する哲学やその調理方法、いわゆるその料理人が持つ「カレー像」を言及しなくてはならない。。。笑

そもそもドキュメンタリー映画とは「真実」のみを正確に描き出しているとは限らず、ある事象の一側面を一時的に恣意的に描いているに過ぎないという大前提を再度認識しなくてはならない。
ということを考慮すると、この映画もまた「真実」の灰野敬二についてではなく、カッコ付の「灰野敬二」についての映画ということになる。そしてそれはどういうことかと言うと、あらゆるドキュメンタリー映像自体が独立した独自の作品=物語として機能しているということである。
この映画の監督でもある白尾監督は横浜関内に佇んでいた伝説の娼婦・メリーさんを扱った映画『ヨコハマメリー』をプロデュースし、ガロで連載していた阿佐ヶ谷在住の漫画家・阿部慎一自身の人生ドラマを描きつつ、彼の代表作である自伝的漫画『美代子阿佐ヶ谷気分』に描かれた世界との境界が崩壊していく映画を監督した。前者は彼女が佇んでいた戦後の時代や横浜という特殊な時代性/場所性から、後者は描かれた白黒の漫画を痕跡として捉え、そこから徐々に遡る様な手法。

現実の事物や出来事が消失し、一度完全に終了し、その痕跡や残り香の様なところから過去に遡っていく、、、もしくは独自の解釈で「物語」を紡ぎ出して行く手法である。
今回の『ドキュメント灰野敬二』においても、一度固定されたところから、その痕跡や過去を遡る手法が取られる。
「ヒポクラテスの死相」と言い、現在の事物の状態や形態は、過去における原因があっての結果の形ではなく、現在の結果から始まり過去を遡行し、過去を作り上げて行くことも可能なはずなのだ。
現在の灰野の相貌や佇まいからその過去を遡り(または往復し)、「物語」を次々と作り出して行くこと。

新しい「別の物語」としてこの映画を読み解くと、彼は小学生のときに一度神隠しか、人さらい、誘拐にあった子供のはずであり、その時から彼の失踪が始まった。。。映画は誘拐事件にあった「少年灰野敬二くん」を現在捜す旅であり、もしくは灰野さん自身その見失った自分自身(=少年時代)を捜す旅としての音楽活動、自身との決別が音楽活動のはじまりであることをあからさまにしている。その神隠しにあった少年の所縁の場所での痕跡や所有物(作文や絵画)、当時の周囲の大人(現在の灰野)の彼に対する思い出を語る「失踪者を捜す物語」として読むことが出来る。
北朝鮮に拉致されたとされる横田めぐみさんを扱ったドキュメンタリー映画『めぐみ』。彼女が北朝鮮で生き続けているのか、別の物語を生きているのか、生きていないのか、、、、。
この『ドキュメント灰野啓二』もまた現在居なくなってしまった子供への鎮魂歌でもあり、残された大人達自身への戒めでもある。。。
そしてミュージシャンに限らず、アーティストはみな子供の頃に神隠しに合ってしまった不幸で幸福な人種だということを証明してしまう映画なのかも知れない。

ヴィヴィアン佐藤(非建築家)

非建築家、アーティスト、ドラァククイーン、イラストレーター、文筆家、パーティイスト、、、と様々な顔を持つ。独自の哲学と美意識で東京を乗りこなす。その分裂的・断片的言動は東京では整合性を獲得している。。。なんちゃって。

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