ヴィヴィアンの私的映画レビュー
★映画『クレイジーホース
☆パリ 夜の宝石たち』★
『クレイジーホース☆パリ 夜の宝石たち』がいよいよ渋谷bunkamuraル・シネマでの上映が8/10friまでとなりました!!!
公式サイトにコメント寄せたり、ヒカリエでのトークショウに朋友のバーレスクダンサーtamayoちゃんと出演したり、、、是非とも見て頂きたい映画の一本です。 監督は『動物園』、『BALLET アメリカン・バレエ・シアターの世界』や『パリ・オペラ座のすべて』を撮影したドキュメンタリーの巨匠フレデリック・ワイズマン。
ワイズマンはインタビューの中でこのクレイジーホースという現実に存在する劇場に関わる人間たちの錯綜する「幻想」を語っている。完璧に美しい女性 達の裸体を見せることによって大金を稼ぎたいと考えるオーナーたちの幻想、完璧なショウの演出のアイディアを絞り出すフィリップ・ドゥクフレの幻想、スタッフたちの幻想、株主たちの幻想、またそこに世界中から集まる観客たちの幻想、そしてクレイジーホースで踊ったり歌ったりすることが出来るというダンサーたちの幻想。それらがそのクレイジーホースという「場」を中心に展開する。その構造は何もクレイジーホースという場所だけがもつ現象ではなく、固有名 を持ち、立場の異なる人間が複数以上関わり、それがメディアとして働くものにはすべて成り立つ。
ドキュメンタリーという映画手法について、扱われている題材とその映画そのものとは完全に区別しなくてはならないが、ワイズマンの場合、テロップも ナレーションもまったく存在しない。その題材に対して制作者の意図や見方の方向性に押し付けがましさがまったく感じられない。限りなく透明。しかしその透 明に思えることこそが実は不過視の絶対的な重力の様なものを生んでいる。
この映画の中では様々なものが暴露される。
たとえば、、、昼間のクレージーホース。壁や絨毯に染み付いた煙草の匂い、溢れたお酒が染み付いたソファ、昼間の大通りに面しているドアから差し込んでくる太陽光によって見える舞い上がる埃など。
そしてもちろんダンサーたちの稽古場や楽屋、素顔の彼女たち。楽屋で有名バレエダンサーたちのNG集を皆で見て馬鹿騒ぎしている時ほど彼女たちの裸を垣間見られる瞬間はない。ステージ本番中やカメラを意識している稽古中、オーディションの風景よりもはるかに裸。
また、名店クレイジーホースをどのように今後経営していくのか、伝統なのか改革なのか、、、を話し合っている首脳陣。
そして演出家、衣装デザイナー、音楽家、強烈なスタッフなど様々な個性溢れる人物が紹介される。。。
そのようにして実在のクレイジーホース自体とその周辺が裸にされ、様々な関係者たちとその箱の持つイメージが暴露されていく。。。
しかし何よりもそのワイズマンの撮影手法の透明性により、この映画を見ている私たち自身の本来持っている窃視欲動というもの、映画というメディアと私たち の関係性、そのふたつがいちばん裸にされる自分自身に気が付く。最終的には裸にされるのはダンサーたちでもなく、クレージーホースというお店でもなく、ス クリーンに映っている光に見入ってしまっている自分たちが裸にされるようだ。。。
クレージーホースの踊り子ヌーカとベイビーは現在ロンドンのデザインミュージアムで展覧会中のクリスチャン・ルブタン展のなかで「FETISH」という作品中にモデルとして登場している。それはルブタンのシューズを履いて、デヴィット・リンチが撮影したもの。フランシス・ベーコンそのものの濃厚な作品です。
http://louisemore.wordpress.com/2011/03/31/david-lynch-and-christian-louboutin/
映画は来週金曜日まで。おススメよ〜!!!
ヴィヴィアン佐藤(非建築家)
非建築家、アーティスト、ドラァククイーン、イラストレーター、文筆家、パーティイスト、、、と様々な顔を持つ。独自の哲学と美意識で東京を乗りこなす。その分裂的・断片的言動は東京では整合性を獲得している。。。なんちゃって。