★杉本博司『はじまりの記憶』
絶賛上映中!!!★
写真家杉本博司さんのドキュメンタリー映画『はじまりの記憶』が3/31satより渋谷シアター・イメージフォーラムにて公開が決定しました。奇しくも原美術館での展覧会「杉本博司 ハダカから被服へ」と同日公開です。
元塚本組で『VITAL』『六月の蛇』の助監督をした中村佑子監督の作品。
音楽は現在乗りに乗っている渋谷慶一郎さん。
ナレーションは先日ご懐妊報道のあった寺島しのぶさん。
一般に杉本博司は写真家だと捉えられている。しかしじつは写真家というよりも、カメラという箱形の装置そのものを使ってしか成立し得ない、若しくはカメラさえ使用しない一瞬のもしくは長時間の現象そのものを永遠に残すことを作品化してきた。。。
それは世間一般のいわゆる写真家とはかなりかけ離れているかもしれないが、やろうとしていることは「写真」そのものである。
現像された写真(現在)というものが永遠であり得ることを探るアーティストともいえる。。。
杉本博司が30年間活動の拠点としているNYチェルシーのスタジオ内の製作現場から昼食風景、NYの個展会場のギャラリー、フランスプロヴァンスでの野外 製作現場、NYの街中、タルボット記念館、ニュージーランドシドニー、靖国神社、直島、そして小田原。。。それらの場所場所を中村監督は杉本博司と旅をし て行く。その間杉本博司の思考回路や哲学が徐々に紐解かれて行き、その旅は世界中の「都市」への旅ではなく、「杉本博司という世界」の旅であることにすり 替わって行く。。。
その間に彼の有名な放電シリーズ、建築シリーズ、劇場シリーズをテンポよく紹介していく。そして彼の生い立ちからLA留学時代〜NY極貧時代、コマーシャルフォトではなくアーティストとして進路を決定する場面を出世作ジオラマシリーズの紹介とともに描いていく。。。
ドキュメンタリー映画とは、多くの場合「扱われた素材」と「映像そのもの」を混同してしまいがちだ。観客はそこで「映像そのもの」を見ているはずなのに、 「扱われた素材」を論じてしまう。ドキュメンタリーにおいて映像は限りなく透明性を持っている場合が多い。しかし明らかに私達はドキュメンタリー映画とい う「映像作品」を見ているのだ。
この『はじまりの記憶』において留意しなくてはならないことは、アーティスト杉本博司の面白さと、このドキュメンタリー作品の秀逸さにある。
優れたドキュメンタリー映画の条件は対象を分かり易く紹介していることだけではなく、監督自身とその時代性が映りこんでいなくてはならない。いわば監督自身の現在の諸問題を織込んで作られていなくてはならないのだ。
それゆえこの『はじまりの記憶』は、アーティスト杉本博司を追い求めているだけではなく、中村監督自身の「杉本世界」を彷徨する長いロードムービーでもあ り、そのなかで中村監督自身が様々なことに気が付いて行く、いわば成長物語(ビルディングロマンス)であることもとても興味深い。。。
劇中、杉本さんが自らの「存在感の希薄性」を語っている。
その時思わずカメラを廻している中村監督は突発的に、ナレーションである寺島しのぶさんにアフレコで語らせるのではなく、「それはいつ頃からですか?」と聞いてしまう。
その瞬間を見逃さないで欲しい。。。その中村監督の心の中で起きた一瞬の出来事が、このドキュメンタリー映像のいわば核心でもあり、最後まで話を牽引して 行く重要なファクターになっていく。。。この瞬間に立ち会っていることに気が付いた鑑賞者は幸福である。一瞬のその発芽が映像内で成長し、最後にはつぼみ を付け花が咲く。この立合い・共有こそがドキュメンタリーの醍醐味であり、私達も監督とともに旅をしている事に気付かされる瞬間だ。
その後19世紀の三次関数の超精密彫刻や写真の祖のタルボットへの類似性、そしてシドニービエンナーレのファラデーケージ、海シリーズ、直島の護王神社再 建プロジェクト、野村萬斎さんとのコラボレーション、文楽の新解釈プロジェクト、そしてオリジナル能のプロジェクト、終焉の地の小田原プロジェクトを紹介 していく。。。
最終的にこの自己言及的な作風の杉本博司はどこへ向うか、それを中村監督の視点と同時代性の視点とで展開して行く。。。
http://sugimoto-movie.com/
PS:
数年前、金沢で杉本博司個展『歴史の歴史』を見た。
たくさんの中部屋に杉本流に分類されたものたちが、ある種の同質なファクターをもとに収め展示されている。
「電気」と題された部屋には、杉本さんの放電シリーズの写真群とR.ハミルトンによるデュシャンの「大ガラス」複製。そして鎌倉時代の雷神の彫刻。
「解剖」と題された部屋には、F.ベーコンによるM.レリスの肖像。シュルリアリストによって大絶賛されたJ.G.ダゴディの美しい解剖図。その部屋にもうひとつあったが何かは忘れました。
とにかく分類における視点や切り口の鋭さはいまも覚えているます。。。
ヴィヴィアン佐藤(非建築家)
非建築家、アーティスト、ドラァククイーン、イラストレーター、文筆家、パーティイスト、、、と様々な顔を持つ。独自の哲学と美意識で東京を乗りこなす。その分裂的・断片的言動は東京では整合性を獲得している。。。なんちゃって。