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★寺山×蜷川
『血は立ったまま眠っている』01★

寺山修司の処女戯曲『血は立ったまま眠っている』の千秋楽をシアタ−コクーンで見て来た。
「一本の樹の中にも流れる血があるそこにでは血は立ったまま眠っている」
という短い寺山自身の詩から発想されたこの戯曲は60年に発表された。今回以外にも初めて寺山作品を演出する蜷川幸雄。

パーティでいつも良くして下さる寺嶋しのぶさんと日本一小さいマジシャン・マメ山田さんが出演している。先日『Dr.パルナサスの鏡』のプロモーションの 際、テリー・ギリアムとリリー・コールが来日した際のパーティで、マメさんに出て頂こうとして連絡したままだったので、ご挨拶がてら観覧して来た。

V6の森田剛と窪塚洋介、寺嶋しのぶさんが主演。ほか80年代一世を風靡した「THE STALIN」の遠藤ミチロウや「新宿梁山泊」の金守珍などが脇を固めている。舞台演出も豪華だし出演者はさらに豪華。

ところで、今年の初め、朋友ソワレさんが主催する「新春シャンションショウ」に行って来た。そこで毎年出演されているニューハーフ(と言わせて頂きます) の佐々木秀美さんの舞台を見た。彼女の舞台は見るたびにめきめきと上達していて、人を引き込むトークと歌は実に見事だった。

「ボン・ボヤージュ」を唄う前に、長いMCからさらに長い「語り」が始まった。
自分はフランスの港町の女で、学校にも行かず身体を売って生計を立てて来た。ある日、客の中で良い人を見つけ、いずれ恋に落ち、結婚した。そして小さなレ ストランを夫婦で営むようになる。。。しかし幸せは長くは続かない。漁港故海外から沢山の船が寄港し、アメリカ人の若い女がやって来て、主人を奪って行っ てしまった。。。自分は一人残されてしまった。。。 そこで『ボン・ボヤージュ』が始まるのだが、終わってからも客席からは物音ひとつせず、全ての客はその世界に引き込まれていた。

そのとき思ったのは、佐々木秀美さんはマリリン・マンソンに似ている、と。
別に見た目や楽曲が似ているというのではない。一楽曲をその場でパフォーマンスをする際に、楽曲の世界観や歌詞世界の登場人物が、そのパフォーマー自身とピタリと重なって、それは演技を遥か凌駕し、そのものになってしまっている、という錯覚がそこに起こる。。。
マリリン・マンソンやロブ・ゾンビなどのゴシックロックは、その大袈裟でケバケバしいパフォーマンスやステージが見せ物小屋や劇場の様なので、「シアトリカルロック theaterical rock」と呼ばれたりもする。
共通する事はそのパフォーマンスは台本があって、演出され効果が一番効果的に発揮出来るように練習/稽古され、実践されるという事。
要するに、佐々木秀美さんだけがマンソンに似ているというのではなく、物語世界を唄う場合、世界観をパフォーミングする時、それが「自伝的かどうか」、も しくは登場人物にいかにパフォーマーが同一化(感情移入)するかがポイントになる。最近ではDVDやテレビでも舞台やライヴを見ることはできるが、パ フォーマーと同じ空間/時間を観客がそこで共有する場合、その催眠術的効果はとくに生まれる。一期一会的な特権的な優越感が触媒になり、ソープオペラに簡 単に入り込める様な「感情移入」型の鑑賞術が試される。
毎回、ドラムを壊したり、怪我をするミュージシャンは自身とパフォーマンスとのギャップに苦しみ、そのケ(日常)の部分を見せられなくなるのだ。海外に住んでしまうのもひとつの例。


さて。今回のステージで遠藤ミチロウがフォークギターを片手に唄っていた。叫んでいた。
80年一世を風靡した「THE STALIN」というバンドのヴォーカリスト。ステージは過激の代名詞であり、豚の内蔵が飛んだり、鶏の首がちぎられたり、喧嘩や殴り合いも当たり前、時 にはステージの上で排泄までしてしまっていた。いま思えば、これは日本の元祖シアトリカルロックであった。(いや演劇ではなく本気だった。)

そのミチロウがこの劇の合間合間に毎回出て来て、唄い、叫び、語る。。。
寺山映画『田園に死す』の三上寛の役である。一方昔のアジテーター的「遠藤ミチロウ」は窪塚洋介にすっかり乗り移っていた(窪塚はミチロウ風のメイクと衣 装)。ふたりの「遠藤ミチロウ」がそこにはいた。現在のフォークシンガーであり演技というよりは楽曲を唄い演奏する「ミチロウ」と、80年代の頃のイメー ジを背負っている「ミチロウ的窪塚」。

劇中様々な寺山の哲学や歌が登場する。そのなかで、「去年の切符を持っているが、それはもう使い物にはならない、しかし去年の切符で去年の汽車に乗ることはできる」。去年の汽車はいまも走っている。。。
人生は何をして来たかではなく、なにを後悔してきたか、が重要だ。

過去は現在も存在し、出来事や思い出は何度も捏造され、作り替えられる。。。
寺山の真骨頂。

劇中、マメさんと日野和彦さん、ふたりの小人が出ていた。彼らはずっと走り回ったり、三輪車を漕いだり、ラジオ体操をしたりしている。。。
ステージ上ではそのふたり意外全員が演技をしていた。当たり前の事なのだが、彼らは存在そのものが「現実の生」を背負っていて、その演技との区別がないとも言える。

そしてもうひとつ。
蜷川幸雄さんと寺山修司は同い年!!!
そしていままで接点が全くなかったと言う。当時は面白い人間が数多く居て、たとえば澁澤龍彦と寺山修司も接点はなかった。種村季弘が天井桟敷の事を「お茶漬けを食べているようだ」と揶揄した。それくらい。
皆存在は知っていてもその事については敢えて語らなかったり、自分からは近づこうとはしなかったようだ。

寺山が生きていたら、『血は立ったまま眠っている』をこのような形で再演しただろうか。もし寺山が生きていたら、蜷川さんは演出しただろうか。
敢えて「寺山」と言わせていだけば、60−70年代を疾走して行った寺山修司は死に、現在その切符を持っている蜷川版「寺山修司」は蜷川さんの中に生き残っている。
ステージ上では見えないふたりの「寺山」が居た。「寺山修司」と「寺山的蜷川」とが。

この演劇は「ふたりのミチロウ」と「ふたりの寺山」が存在していたことになる。

ヴィヴィアン佐藤(非建築家)

非建築家、アーティスト、ドラァククイーン、イラストレーター、文筆家、パーティイスト、、、と様々な顔を持つ。独自の哲学と美意識で東京を乗りこなす。その分裂的・断片的言動は東京では整合性を獲得している。。。なんちゃって。

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