■見出し・ヤミ市を起源とするエネルギッシュな繁華街
・プロレスラーが闊歩した往時の面影
・渋谷中央街に元気を取り戻す音楽イベント「渋アコ」
・リアルとネットをつなぐアーティスティックな試み
※クリックするとエリア情報が表示されます
2000年に渋谷マークシティが開業し、人の流れが大きく変わった「渋谷中央街・道玄坂一丁目エリア」。だが、赤提灯を吊るした焼鳥屋が軒を連ねる、昔懐かしい街並みは今も健在だ。終戦後のヤミ市を起源とするこのエリアには、現在も少し雑然としたエネルギッシュな雰囲気が満ちあふれている。
モヤイ像のある渋谷駅「南口」からバスロータリーの向かいを眺めると、電光ビジョンの設置されたアーチが目に入る。そこが「渋谷中央街」の入り口だ。渋谷中央街と聞いても、ピンとこない方が多いかもしれない。たしかに、「渋谷センター街」と名称は似通うものの、その知名度の差は歴然としている。だが、趣きは大きく異なるものの、渋谷中央街もまた“濃い”魅力を持つエリアであることは間違いない。今回は、この渋谷中央街を中心に、国道246号と道玄坂に囲まれた道玄坂一丁目の一帯を歩いた。
渋谷中央街には、狭いエリアに雑居ビルがひしめき、小さな店舗が肩を寄せ合って営業している。どこか懐かしさを感じさせる街並みだ。渋谷の他の地区と大きく異なるのは、“若者”向けの店が少ないこと。ここではチェーンのファーストフード店は鳴りを潜め、その代わりに焼鳥屋や居酒屋、もつ鍋など、赤提灯が吊るされた「お父さん向け」の店が充実している。とりわけ多いのが焼き鳥屋で、「24時間営業」という驚きの店もある。行き交う人々の年代も、渋谷センター街などに比べると、明らかに高めだ。
焼け野原からの復興
そのように他のエリアとは少し異なる雰囲気がつくられたのは、戦後の復興と深い関係がある。第二次大戦の空襲により渋谷区内は一面焼け野原と化したが、戦後、新宿や池袋と並び、渋谷駅周辺にも自然発生的にヤミ市が生まれ、たちまち活況を呈した。なかでも、たくさんのバラックが建ち並んでいたのが、井の頭線渋谷駅前や道玄坂のあたりだ。米軍が戦後に利用する意図があったからか、井の頭線は空襲によるダメージをあまり受けておらず、それもこの地区の復興を後押ししたようだ。当時の光景は、渋谷のヤミ市を支配した任侠・安藤昇の生涯を描いた2004年公開の映画『渋谷物語』の中でも再現されている。その後、ヤミ市を起源とする道玄坂一丁目の繁華街は、当時の大和田町という地名から「大和田マーケット」と呼ばれるようになった。渋谷マークシティ横にある青果店「フレッシュ大和田」など、今もこの地区に「大和田」という名が付く店舗があるのはその名残だ。
かつて、このエリアが「プロレスの聖地」だったと聞いても、にわかには信じ難いかもしれない。じつは道玄坂一丁目には、1961年にプロレスラーの力道山が建てた「リキスポーツパレス」が存在した。この施設は常設リングでプロレスやボクシングの興行を行うだけでなく、ボウリング場やレストラン、キャバレーなどが入る総合娯楽施設だった。そのすぐ近くで当時から営業を続ける蕎麦店「たけや」は、力道山の弟子のアントニオ猪木やジャイアント馬場ら、若いレスラーのたまり場になっていたそうだ。たけやの本間誠さんは、「うちの母親は面倒見が良かったから、若いレスラーが居つくようになったようですね。当時私は子どもでしたが、プロレスの技を教わったり、野球を観に連れて行ってもらったりした記憶があります。猪木さんや馬場さんのほか、吉村道明さんや大木金太郎さんもよく来てくれましたし、あるとき、カール・ゴッチと宿敵のロビンソンが2人で来店した時にはたまげました」と、当時を振り返る。また、渋谷中央街の居酒屋「千両」の鈴木史郎さんは、こう話す。「私の祖父は仕立屋だったんですね。レスラーは体が大きいから、普通のスーツは着れないでしょ。それでレスラーがよく訪れ、祖父が大きなサイズに仕立て直していました」。現在、リキスポーツパレスのあった場所はオフィスビルになっているが、その周辺には、たけやや千両など、当時の記憶が今もわずかに残っている。
今も昔も「大人の街」
たけや:現在の場所で50年以上も営業を続ける老舗蕎麦店。上品なさっぱり味で、力道山やその弟子のアントニオ猪木、ジャイアント馬場など多くのレスラーに愛された。 |