現代的な飲食店と老舗商店が混在する宮益坂は、新旧の文化がバランス良く融合するエリアだ。古くは大山街道の街道筋として発展し、かつては富士見坂としても知られた宮益坂。ケヤキ並木に覆われ、落ちついた風情あふれるこの坂道の歴史を振り返る。
JR渋谷駅の東口に出て明治通りを渡ると、緩やかな勾配の続く宮益坂の入り口が現れる。ケヤキの並木が風にそよぎ、石畳の敷き詰められたこの約450メートルの坂道は、渋谷という雑然とした街にあって、どこかのんびりとした風情を漂わせている。通りを行き交う人々も、他のエリアに比べて、若干、年齢層が高い印象だ。
この地域は、1700(元禄13)年に宮益町と命名されたと記録されている。その由来は、坂の中程にある御嶽権現(現在の御嶽神社)にあやかったという説が有力だ。
宮益坂は、江戸の赤坂御門を起点とし、足柄峠へと至る大山街道の一部だった。大山街道は、江戸時代中期以降、山岳信仰の対象となった大山(神奈川県伊勢原市や秦野市などに所在)への参拝路として賑わい、宮益坂にも多くの参拝者が行き交うようになる。
幕末以降に一層の発展
今では想像するのも難しいが、当時の宮益坂からは四季を通じて富士山の見事な眺めを楽しめたことから、「富士見坂」と呼ばれていたそうだ。渋谷宮益商店街振興組合の理事長を務める小林幹育さんは、「旅人が足を止め、富士山を眺めて一服したことから茶店などができて栄えたようです」と話す。松尾芭蕉もその景観に感嘆し、「眼にかかる 時や殊更 さ月不二」という句を詠んだ。その句碑は現在も御嶽神社の境内に佇んでいる。
そのように名所である一方、現在よりも急勾配だった宮益坂は通行の難所としても知られ、道には石が敷かれ、丸太の棒を埋めて滑り止めにしていたという。宮益町は幕末以降に一層の発展を見せ、1871(明治4)年の「町人渡世帳」には、数多くの飲食店に加え、桶や傘、提灯などの職人や大工が住んでいたと記録されている。明治末期には宮益坂を東京市電の路面電車が通るようになり、街並みはますます賑やかになっていく。
1923(大正12)年の関東大震災の後、宮益町は「渋谷上通り2丁目」と改称され、元禄時代以降の由緒ある地名を愛する町民の間に反対運動が起こる。だが役所には受け入れられず、戦後は「渋谷区渋谷1丁目、2丁目」となったため、現在は宮益町という地名は存在しない。それでも、地元の人は「宮益」を通称として使い続け、今では外から訪れる人にもすっかり定着している。
江戸期から栄えた宮益坂だが、第二次大戦の空襲によって、その街並みは灰燼に帰した。住人が一丸となって建て直しを進めるなか、1964(昭和39)年の東京オリンピックの開催に伴う青山通りの拡張をきっかけに、宮益坂の街並みも大きく変化する。「それまでは木造二階建ての商家が大半でしたが、ビルが一挙に増え始めました」と、小林さんは当時を振り返る。交通量の増加から1969(昭和44)年には都電も廃止。1983(昭和58)年には歩道拡張工事の完了とともにケヤキが植樹され、美観も引き立てられた。
急速に開発が進む宮益坂下
「センター街などに象徴される渋谷の喧騒からは少し距離を置いて、青山通りの落ち着いた雰囲気を取り入れながら、オトナがのんびりと歩ける環境を整えていきたい」と、小林さんが街づくりの方針を語る。商業的な発展では西口にリードされていた感のある東口だが、今後は東急文化会館跡地の開発、また2008(平成20年)年の東京メトロ副都心線の開通に伴う新渋谷駅の設置などを引き金に、宮益坂エリアの通行者の急増も見込まれている。その流れのなかで宮益坂はどう変わり、何を残していくのか。今後の動きに注目したい。
小林幹育さん 1940(昭和15)年生まれ。渋谷宮益商店街振興組合の理事長を務める。祖父母の代から宮益坂下に居を構え、この地の変化を見つめ続けてきた。 |