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KEY PERSON キーパーソンが語る渋谷の未来

渋谷を中心に活躍する【キーパーソン】のロングインタビュー。彼らの言葉を通じて「渋谷の魅力」を発信します。

プロフィール

1959年、神奈川県藤沢市生まれ。1981年、慶応大学在学中にセルフプロデュースによるアルバム「take a break」でソロ・デビュー。現在までにソロ・アルバム15枚、ならびにフュージョン・ユニット「PYRAMID」によるアルバム2枚を発表。1996年にスタートしたTBS系ドキュメンタリー番組『世界遺産』のテーマ曲「The Song of Life」は代表曲の一つ。さらにアレンジャーやプロデューサーとして松田聖子や吉田拓郎、葉加瀬太郎、シャ乱Qなどを手がけたほか、映画やゲームのサウンドトラックの制作など多彩な音楽活動を展開。

2009年11月7・8日の2日間、渋谷エリア各所を舞台に第4回渋谷音楽祭が開催される。今回、歌手の渡辺美里さんとともに「フラッグ・アーティスト」を務めるのが、ギタリストや音楽プロデューサー、アレンジャー、作曲家など、さまざまな顔を持つ鳥山雄司さん。中学時代から慣れ親しんだ渋谷には人一倍の思い入れを持つという鳥山さんに、「音楽の街」としての渋谷の変遷や、ご自身の音楽活動について語ってもらった。

若い世代のセンスの良さには驚く。「四畳半っぽさ」が全くない(笑)

--第4回渋谷音楽祭に「フラッグ・アーティスト」としての出演を決めた理由は?

渋谷とは中学生の頃から深い関わりがあり、とてもお世話になったという実感がありますので、少しでも恩返しができればと。それから過去の渋谷音楽祭の内容を聞いて、街が一つになった素晴らしい取り組みだと感じたのも理由の一つです。僕は11月7日に渋谷C.C.Lemonホールで美里ちゃん(渡辺美里さん)と共演しますが、どのようなライブにするかは、ちょうど今考えているところ。今年6月にリリースした15枚目のアルバム『Guitarist』は、初めてアコースティックギター1本でつくった作品で、僕が本当に足しげく渋谷を訪れた70年〜80年代の洋楽のカバー集です。「そういえば彼女に振られたときには、この曲が渋谷で流れていたな」といった淡い思い出も色々と(笑)。ともあれ、どの曲を演奏するにしても、どう演出すればこの街に合うかをよく考えたうえで、僕自身、渋谷へのノスタルジーを感じながら演奏を楽しみたいですね。もともと美里ちゃんも渋谷に住んでおり、このエリアとは関係の深い女性です。僕よりも一つ若いジェネレーションの彼女との違いを演出することでも、面白さを出せるのではないかと考えています。

--70年〜80年代と現在では、渋谷での「音楽」はどのように変わりましたか。

自由になったのは間違いないでしょうね。例えば、僕の学生時代は、渋谷にはアマチュアの出られるライブハウスがほとんどありませんでした。だから、高校の頃はいくつかのバンドが共同で貸ホールを借り、チケットを売りまくってライブをしました。当時、東邦生命ビル(現在の渋谷クロスタワー)の中にあった東邦生命ホール(現在の映画館「渋谷東急」)なんかが多かったですね。それが今では、ライブハウスが増えて簡単に出演できるようになったのは羨ましい。僕は今回の参加協力店の中ではクロコダイルに出演経験がありますが、ライブハウス同士が協力し合って、渋谷音楽祭のようなイベントが開かれるのも素晴らしいことだと思います。10年前くらいから路上パフォーマンスをする人たちが増えたのも、自由さの表れと言えるでしょうね。

--音楽祭では、鳥山さんと、若いミュージシャンとのコラボレーションが大きな見どころです。最近の音楽を聴いて感じることは?

最近の若手は、とにかくセンスがいいですよね。アコースティック系のミュージシャンについて話せば、僕たちの世代で言うとキャロル・キング、今ならノラ・ジョーンズみたいな自由な空気感があり、歌詞とメロディーのバランスがとても良い人たちが増えたことに驚いています。洋楽っぽくて、悲壮感がない。何というか、「四畳半っぽさ」がないんですよね(笑)。アコースティックのみならず、ミクスチャーやDJ系、ヘビメタなど、どのミュージシャンの曲を聴いても、そうですね、洋服屋で言えばBEAMSやUNITED ARROWSのように洒落た「セレクトショップ感」をイメージすることが多い。ユニクロも同じですが、とりあえず頭のてっぺんからつま先まで、それなりの格好にしてくれるというショップですね。彼らの世代の音楽にも、そういうセンスの良さというか、上手さを感じさせるものがある。僕らの時代は、もちろんユニクロなんてなく、お金はないけどお洒落をしたいというチープシックな感覚で古着屋を回り、ボーリングシャツを探し、リーバイスのパンツを合わせて、靴はデッキシューズにするか、と不器用ながらも自分たちでセレクトする文化がありました。今に比べて、画一化は進んでいなかったでしょうね。どちらが良いということではなく、そういう文化的な背景が、はっきりと音楽にも表れているのではないでしょうか。

--若いミュージシャンへのメッセージをお願いします。

僕が期待しているのは、とにかくステージ上でのパフォーマンスを楽しんでもらいたいということ。プロ・アマを問わず、自分たちが楽しまなければ、エンタテインメントにはなりませんから。彼らがどういうステージを見せてくれるのか、僕もとても楽しみです。

インストのミュージシャンが集まるレーベル設立が最終目標

--かなり早い時期から音楽に興味を持たれていたとか。

父の影響が大きいですね。昔、僕の父は進駐軍のキャンプで演奏しており、プロになる気持ちもあったようですが、当時は音楽で身を立てるのはかなり無謀だったから、家庭のことを考えて諦めたみたいです。ただ、その後もラジオ関東(現在のラジオ日本)でハワイアンミュージックのDJをするなど、音楽との結び付きは深く、僕は幼い頃からおもちゃとしてウクレレを渡されていました。音楽仲間が出演するライブハウスにもよく連れていかれて、4歳のとき、突然ステージに上げられ「お前もウクレレを演奏してみろ」と言われたのが、僕のステージデビュー(笑)。父は日本のハワイアンミュージックの草分けといわれる大橋節夫さんと親交があり、僕もその方のレコードをすり切れるほど聴かされていたので、何とか演奏できました。小さな子どもがステージで楽器を弾いたら、それだけで盛り上がりますよね。それで、「ああ、自分が演奏したら大人は喜ぶのか」と味をしめて、僕の音楽人生にスイッチが入ったという感じです(笑)。小学校時代はすっかりギターにはまって、中学1年からハードロックのバンドをスタート。中学・高校とも、まさに音楽一色の生活を送りました。

--プロを意識し始めたのは?

高校3年のとき、慶応大学のライト・ミュージック・ソサエティ(LMS)というビッグバンドの大学生の先輩とバンドを組み始めました。LMSには音楽業界に進んだOBが大勢いて、大学に入ってすぐ、そのつながりでYMOとかユーミンのいるアルファミュージックに出入りして曲づくりを始めたんです。ちょうどその頃、高中正義さんや渡辺香津美さんの次の世代のミュージシャンを育てる意向があって僕に声をかけてくださり、大学2年のときにデビュー。当時の音楽業界には世界的にスタジオミュージシャンが注目される傾向があり、しばらくは僕もスタジオ中心にギタリストとしての仕事をしていましたが、しだいにアレンジャーやプロデューサーの仕事を任せていただくようになり、仕事の幅がどんどん広がっていきました。

--音楽活動の幅は今後どのように広がっていくのでしょう?

肩書きはさまざまですが、音楽活動の軸足は一貫して「ギタリスト」に置いています。その中で分類すれば、僕はインストゥルメンタルを志向するプレイヤーになるでしょう。今後の目標としては、若い人たちも含め、僕と同じようなインストのミュージシャンのコミュニティをつくって、最終的にはレーベルをつくりたいですね。またインストは、歌モノに比べ、言葉の壁がないために海外で活動しやすいという良さがあります。だから、もっとフットワークを軽くして海外にも積極的に出るようにして、10年後くらいには「世界同時リリース」といった作品を出したいです。傾向として、インストは音楽好きな人でないと興味を持ってもらえないこともありますが、例えば映画のサントラならスッと受け容れられたりもします。やはりインストである『世界遺産』のテーマ曲「The Song of Life」で、僕のことを知ってくださった方も多いですしね。すでに始めていることですが、今後は音楽と映像のコラボレーションにも、もっと力を入れたいと考えています。

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