6歳からヴァイオリンを始め、青山学院初等部・中等部、桐朋学園大学を経て1994年イェール大学音楽学部大学院修士課程アーティスト・ディプロマコースを卒業。あくまでもアコースティックな音色にこだわり、年間100本以上のコンサートを開催し、全国各地で数多くの観客を集め新たなクラシックファンを獲得している。2006年には「高嶋ちさ子 12人のバイオリニスト」を立ち上げ、大いに注目を集める。今年は5月に新イタリア合奏団と共演し、12月にベルリン・フィル・ヴァイオリンアンサンブルとのツアーも予定されている。現在、演奏活動を中心としながらも、テレビ・ラジオ番組の出演、本の執筆など、そのキャラクターが評価され、活動の幅はさらに広がりを見せている。
アコースティックな音色にこだわり年間100本以上のコンサートをこなしながら、テレビのバラエティー番組でも知られる高嶋ちさ子さん。東横線で渋谷の青山学院初等部に通っていたころを懐かしく思い出していただきながら、今の渋谷に対する印象などをうかがいました。
--渋谷との最初の出会いは?
上野毛に住んでいて、初めて電車に乗ったのが小学校に入った時ですので、渋谷デビューは小学校に入った日か、入学試験に行った日ですね。渋谷から自由が丘までの15分という限られた時間で「東横線パーティー」というのを開いていました(笑)。本当はいけないのですが、お菓子を持ち込んで(笑)…。渋谷駅改札から一番奥の先頭車両に乗るんですよ。そこが一番広いんですよね、空間が。あと、渋谷は始発なので、早く出発する電車に大人がどんどん乗っていくのですが、子どもたちは最後に出る各駅停車に乗るんです。一番遅いのに乗って、長く遊んでいたいから車両の端っこを10人ぐらいで陣取って、そこで「軍艦、軍艦、ちーんぼつ」とか言ってずっと遊んでいました。それがすごく好きで、新玉川線が出来ても東横線に乗っていましたね。それで、自由が丘につくと、みんなバラバラに分かれていくんです。
--青山学院初等部のころの渋谷での一番の思い出は?
もう本当にやんちゃだったので…電車で騒ぎ過ぎて東急から苦情が来たこともあります。「新玉川線に乗っている人は全員集合」と言われて、「何月何日に騒いでただろ」って。つり革で懸垂したり、本当悪いことばっかりしていましたね。誰よりも先に席を取りたいから、電車が渋谷に入ったとたんに開いている窓からかばんを投げ入れて座席取ったりとか…。小学校2年生の時に新玉川線ができたのでちょっと心移りしましたが、本当に東横線好きで、すぐに東横線に戻ってきました。電車の通学はすごく楽しかったですね。初等部出身者だったら誰でも知っていますが、東急東横線の横、今でいう歩道橋のたもとに甘栗屋さんがありました。今はもちろんありませんが、そこが待ち合わせ場所でしたね。休みの日に友達の家に遊びに行く時も、動物園に行くのにも、とにかく「甘栗屋さんに何時」というのが合言葉でした。その甘栗屋さんが無くなったり、ホブソンズができたり、私が卒業してからどんどん変わっていっちゃって…。だけどやっぱりあの甘栗屋さんは、いまだにみんなで「懐かしいわね」って話しています。誰かが「どうする?待ち合わせ」と言ったら、冗談で「じゃあ甘栗屋さんに」となります、今でも(笑)。すごく懐かしいですね。
--学校へは、渋谷駅からどういうルートを使っていましたか?
初等部のころは、私たちは真ん中の降り口から降りて、甘栗屋さんの奥の渋谷警察署の方の歩道橋を上っていました。でも中等部になると、プラネタリウムのあった東急文化会館横の通路を使って、学校に行くんです。初等部生はあの通路を使っても初等部にたどり着けないので、中等部になってそちらを使えるのが大人の証拠なんですよ。私が小さい頃は、渋谷警察署の前は、まだ普通の家がいっぱいありました。犬を飼っている家があって、みんなで勝手にペロって名前付けて、すごくかわいがったりしていました。もちろん、今はそんな家はありませんが、何か懐かしいな。
--通学の記憶が鮮明ですね。
昔もう全部、覚えていました…自由が丘から渋谷までの景色を。ですから1軒でも家を建て替えるとすぐ分かる(笑)。ああ、ここ変わったとか、ここ何とかだった、ここんちのビル、ここの家はビルの上に家があるんだとか、ここに住んでいるのかなとか…もうみんなで、そういうことばかり話していました。代官山の丘の上に昔から大きなマンションがあるのですが、あれはどういう人が住んでいるんだろうねとか…。それを最近は、真横を車で通ったりすると、「ああ下はこうなっていたんだ」とか、車を運転しながら東横線を見ると、「中から見るとこんななのに、外から見るとこんななんだ」とか…目線が全く違うのですごく面白いですよね。まったく別世界に見えてきます。
--その頃、渋谷の街には寄り道しなかったんですか。
一度も街には出ていませんね。寄り道しちゃいけなかったんです。だから駅と学校の間の通学路の途中で、犬にちょっかい出したり、ビルとビルの間に入ったり、そういうことをよくやっていました。そのせいか、初等部から駅までを普通に歩くと10分ぐらいなんですが、45分ぐらいかかっていましたからね。とにかく学校が大好きだったので、始発に乗って学校に行って、まだ開いてない校門の前で一遊びして、校門が開いたらまた入って遊んで。で、その一緒に遊んだ友達と学校の門が閉まるまで遊んで、それでまた電車に乗って自由が丘に…。で、「明日は何時ね」って待ち合わせするんです。それがすごく楽しくて。学校は大好きでした。小学校のときは遊ぶだけ遊びましたね(笑)。
--もう少し大きくなってから、渋谷で遊んだ記憶はありますか?
高校からは仙川にある桐朋学園に行ったのですが、青山学院の時の友達もみんな渋谷にいることがわかっていますから、ものすごく遠回りしてやっぱり渋谷に出て遊んでいました。渋谷ではよくお茶を飲んでいました。大学生になってもお茶を飲んでいましたね。「スウェンセンズ」(現=スウェーデン)という、すごく大きなパフェがあるお店とか…とにかく道玄坂とか公園通りを歩くことがすごく楽しみで、歩けば誰かに会っていました。あの頃、公園通りにディスコもありましたね。けど、残念ながら門限が7時だったので、ちょっとつまらない感じでしたけど。
--当時の渋谷での待ち合わせ場所はどこでしたか?
やはり甘栗屋さんです(笑)。初等部のときの友達と遊ぶ時はやっぱり甘栗屋さんですよ、お恥ずかしながら(笑)。ですが、桐朋学園には地方から出てくる人もすごく多かったので、もちろんハチ公ですね。で、「ハチ公周辺は人がすごく多いのでハチ公のしっぽをつかんでいてね。しっぽつかんでないと迷子になるから」って、わざと言ったりして。行ってみると、本当に友達がハチ公のシッポをすごく真剣につかんでいたりして(笑)…すごくおかしかったです。「田舎から来た人をバかにしている」ってうちの親に怒られましたが…。
--買い物などはどこでしていましたか?
高校生、大学生のころはDCブランド全盛時代なので丸井やビームスが多かったと思います。アメカジや渋カジ全盛の時は、映画でトム・クルーズが着ていた空軍ジャンパー「MA-1」とかを渋谷の「バックドロップ」で買い求めたり…。ちょうど大学のころに、渋谷がすごく注目されるポイントになりつつあったんですよ。文化というのとは全然違いますが、あの頃のおしゃれの発祥の地というか…「JJ」とか「POPEYE」読んでいるような人たちは、もうみんな渋谷でしたね。渋谷が若者の街ということで、「渋カジ」という言葉などが流行り出して…。全然危険じゃありませんでしたし。
--最近は渋谷に買い物に行ったりはしませんか?
行くんですよね、これが(笑)。週に1回は行っています。やはり惹かれちゃうんですよ。表面は格好つけたいから「銀座とかでよく買い物してます」って言うのですが、実際に行くのは渋西(シブヤ西武)だったり(笑)。ビックカメラも大好き。本屋さんも好きでしょっちゅう行きます。あと、ちょっと高級ぶりたい時は東急本店。今は、東急本店で物を買っているとか顔が利くというのは、重要なんです。
--街をうろうろすることって、いまもあるんですか?
昔は自分が知らない店があるだけで許せなかったんですけど(笑)、公園通りがつまらなくなって、センター街もちょっと怖くなって、109も違う感じになって…どんどん変わってきて、何か大人が遊べる雰囲気がなくなったような。だからうろつくことは少なくなりましたね。Bunkamuraには行きますが、自分の中ではあそこは渋谷じゃないんですよね、やはり。すごく異空間です。バスに乗って行っていたところですから。子どもの時、ヨシノヤの靴を買うときは渋谷からバスに乗って本店に行って買っていました。ですから、「バスに乗って行くデパート」というイメージがすごくあるんですね(笑)。
--最近の渋谷を街としてどんな風に感じてらっしゃいますか。
渋谷って、一軒一軒のビルが汚かったりちっちゃかったりするから、大人が遊べる空間が少ない気がします。難しいことだと思いますが、高級な路面店とかがもっと増えれバいいのにとは思います。あと、東急東横店を何とかしたい。食料品は素晴らしくて、東急フードショーは結構使います。でも、駐車場がないんですよね。だから西武に止めたり…でもそうすると持って歩くのが大変なので二の足を踏んじゃうことになったりします。あと高級イタリアンとかもあるべきですよね。そう、セルリアンタワーとかは大好きです。1階でランチを食べるのは最高ですね。あそこのパンがおいしいんですよ。買って帰ったりしています。