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KEY PERSON キーパーソンが語る渋谷の未来

渋谷を中心に活躍する【キーパーソン】のロングインタビュー。彼らの言葉を通じて「渋谷の魅力」を発信します。

プロフィール

日本大学法学部卒業。米国UCLAで音楽ビジネスを学ぶ。1979年、第一プロダクション入社。1988年、ニックス設立。1994年、イズムへ社名変更、イズムコミュニケーションズグループを形成する。グループ各社ではアーティスト、アニメ、コマーシャルの音楽制作、プロダクション業務を行い実績を残す。2003年には松任谷由実、岡本真夜、2004年にはMISIAの海外アーティストによるカバーアルバムを制作し話題を呼ぶ。2003年、デュオ・ミュージック・エクスチェンジを設立し、翌2004年、渋谷・道玄坂にライブハウス「duo Music Exchange」をオープン。

2004年、ランブリングストリートに誕生した本格的ライブハウス「duo Music Exchange」。ジャミロクワイも企画にかかわったという同所では毎夜、内外のアーティストがさまざまな音楽を繰り広げている。独自の音楽スタイルで小屋を立ち上げた代表の梶原さんにお話をうかがいました。

貸し小屋でなく、自分たちで企画するライブハウスを作りたかった

--まず、duo Music Exchangeが誕生するきっかけを教えてください。

少し前の話になりますが、ユーミンの楽曲がすごくいいので、「外国の歌のうまいアーティストたちに彼女の曲を歌わせよう」という企画があったんですよ。そこで70〜80年代にアメリカでヒットしたアーティスト12組をピックアップして、全部アメリカでレコーディングをしたんです。レコーディングがあるごとに僕も渡米して、アーティストたちと話をしていたんですけれど、皆さんすごく日本びいきなんですね。「日本にまた行きたい」「日本でコンサートをやりたい」と。ただ、当時の日本の音楽業界では、大物で売れるアーティストしか商売にならないと考えるのが普通で、中堅というか、70〜80年代のアーティストを商売として考えるのはちょっとつらいかなと…。呼ぶからにはギャラも高いので大きな武道館とかアリーナでやらなきゃいけない。でもその分、やっぱりお客さんが入らないので、興行を打つと多分失敗するだろう、ということでなかなかやらなかった。逆に、既存のライブハウスはほとんどが「貸し小屋」なので、基本的には自分たちがアーティストを紹介することはまずない。ただ、レコーディング最中に、彼らの話しを聞くと「ギャラなんか少なくてもいいよ。日本でできるのならすごくいいよ」なんて話がありました。それがDUOを始める1年ぐらい前ですね。

--そうした話が実際の開業につながる訳ですね。

そうです。先ほどお話ししたようなアーティストとの話が頭の中に入っていたところに、ケンコーポレーションさんがON AIR EASTを改造して3階建てにして、「1階は貸します」という形のお話があったときに考えました。自分でやれば、自分で呼んでリスクも自分で持って、自分がビジネスとしてもうまく行くかいかないかということを。結論も出せるのですぐにいいんじゃないかと(笑)。そこで、リスク承知で「いいですよ」と伝えて、それでやることになりました。そのときの結論としては、とにかく自分がすごく音楽が好きで育ってきたので、自分が好きな音楽をやれる、自分が好きだということは世の中にもいっぱい好きな人がいるんじゃないかということで始めました。それで初日がクリストファー・クロスで2週間ぐらいやって、その後海外のアーティストをいろいろ呼びました。ほかのライブハウスは貸し小屋がほとんどでしたが、自分たちで企画して自分たちで発信していく、そういう意識を強く持ったライブハウスとしてスタートしたのがDUOのスタートですね。

--こういう小屋があったらいいなという考えはありましたか?

自分は音楽業界ですけれど、ライブハウス業界の人間ではないので、そこはあまり考えなかったんですよ。何とかなるんじゃないかと(笑)。それで結局、敷金だとか内装制作費とか音響とか。音響も「バーテック」というのが12本入っているスピーカーが24個吊ってあるんですけれど、実際多すぎちゃって、本来はその4分の1でよかったんですけれどね(笑)。でも、確かに音響の評判はすごく良かった。ですから最初にクリストファー・クロスが来たときも音響に関してはまったく問題ないという風に言われました。

--渋谷の街とのマッチングで確信とか不安はありましたか?

不安はないですけれど、ON AIR EASTというのはその当時から有名だったんですね。それでON AIR EASTが改築してこうなるよって聞いたときには場所的にはまったく問題ないと。渋谷の環境というのは、音楽の発信地であり、中心地なので素晴らしいところでできるということで、逆にありがたいという気持ちで、駆け引きもなくすぐに決めました。金額とかも家賃とかも向こうの言い値で決めましたね。

最初はボロボロでした(笑)ターニングポイントは3年目後半あたりから

--店を開いてみて実際の手応えは?

最初は、運営はハッキリいってボロボロでした。経営なんてものじゃないですね。いろんな方が取材に来て、「趣味でやっているとしか思えない」と(笑)。間違いなく、どう計算しても儲かることはないですよと…いう感じで。でもスタートしてみれば予想外のことがあまりにも多くて、要は大きなギャラを払ってお客さんぜんぜん来ないとか、あとプロモーションが間に合わないとか。全然うまくいきませんでした、最初の3年ごろまではずっとですね。

--どのあたりがターニングポイントでしたか?

3年目の後半ぐらいから、要は最初の1年目2年目というのはDUOがあることしかみなさん知らなかったんですよ。それが2年過ぎてくると、全国のイベンターの方とかレコード会社の方とか、一度見にきたら「いい会場じゃない」とか、ここを使ってうちの新人のアーティストのライブやりたいねとか、海外から結構有名なアーティストが来たとき、ここでイベントをやりたいとか、そういうことも増えて、徐々に認知されてきて、そこからみなさんどんどん使いたいと。ですから2年間ぐらいは自分たちがやる、自分たち主催のものしかなく、借りる方は全然いなかった。ただ一番最初に海外のアーティストをかなりいろいろやって、ジャミロクワイやベビーフェイスが来て、評判がいいというのは世の中のイベンターに全部通じるので、それで「DUOって意外に会場としていいんだってさ」みたいなところが出てきて、みんながぜひ使いたいとなり、現在に至ります。一昨年あたりから、稼働率はほぼ95%ぐらいですね。ですからスケジュールの空きは年内ほとんどありません。

--ランブリングストリート自体の変化はどのようにとらえていますか?

クラブとかも多く、確かに若者が多く集まる場所ですよね。ただ、若者でも、10年経てば15歳の人が25歳になり、20歳の人も30歳になるので、だんだん歳をとっていった人たちもまた戻ってきて、30歳、40歳になっても楽しんでくれるストリートになってくれるといいなと思います。「世代間の交流の地」的な部分になればいいですね。

--梶原さん自身が渋谷の街と最初に出会ったのはいつですか?

渋谷に来たのはデパート、東急百貨店とか親に連れられてデパートに来ていました。実家は北区の赤羽で…。池袋とか新宿とか渋谷っていうのは小さい頃からよく母親に連れられて、買い物とかには来ていましたね。プラネタリウムも見ました。多分小学生のころだったと思います。その頃の渋谷の印象は、「とにかく大きな街」でした。自分の実家が赤羽で、映画「三丁目の夕日」みたいな街でしたから、それに比べると渋谷とかの街は昔から骨格が出来ていたとか、すごく大きな街だなという印象は、小さい頃から持っています。高校生とかになると、中学のときもそうだったんですけれど、ちょっと背伸びしたい時ってあるじゃないですか(笑)。赤羽に住んでいるんだけれど、素敵なガールフレンドが中学のときに出来て、その子と赤羽でデートするんだったら渋谷のちょっといい喫茶店に行こうよとかね。そういうので、いい喫茶店というのは2、3カ所知っていて、そこに赤羽から女の子と一緒にデートしたというのをすごく覚えています、今でも。

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