青山学院大学社学連携研究センター所長・教授。1956年、東京都渋谷区神宮前生まれ。80年、東京大学卒業後、国土交通省(旧運輸省)入省。94年に青山学院大学に移籍。近書に「成熟都市のクリエイティブなまちづくり」(宣伝会議)、訳書にR.フロリダ著「クリエイティブ・クラスの世紀」(ダイヤモンド社)など。内閣府物価安定政策会議委員、国土交通省交通政策審議会(鉄道部会)委員、港区都市計画マスタープラン検討委員会委員長、渋谷区まちづくり審議会会長代行ほか政府や自治体の各種委員会委員等を歴任。また、渋谷・東地区まちづくり協議会、原宿神宮前まちづくり協議会、青山通りと街並みの景観を考える会の設立に関わり、代表等を兼務するなど、東京の都心にて様々な都市再生プロジェクトを仕掛ける。NPO渋谷・青山景観整備機構(SALF)理事長も務める。
青山学院大学教授として都市再生や文化創造の研究を進める一方、まちづくりの実践にも積極的に取り組む井口典夫さん。そこで生まれ育ち、現在も住み続けている渋谷・原宿・青山エリア一帯への思い入れは人一倍。常に「まち・街」を歩き回ることを大切にしている井口さんに、研究者・実践者の視点で捉えた渋谷の魅力や課題を伺いました。
--子どもの頃は、どんな街でしたか。
私の家があった原宿の東郷神社のあたりはこじんまりした商店街でした。牛乳屋とか冷蔵庫用の氷屋とかが並んでいて…そう、なぜか、巨人軍で活躍したスタルヒン投手が経営する薬局もあった(笑)。下町っぽくて、まさに映画「ALWAYS三丁目の夕日」の世界ですよ。当時は周辺も静かな雰囲気で、駅の向こうには明治神宮の森が見えていて、竹下通りなんてほとんど人通りがなかった。遊び場所は、青山通りあたりにまで及んでいましたね。まだ都電が走っていて、道幅が狭く、車もあまり通っていなかったな。あと、子どもたちの遊びのメッカといえば、今は国連大学などとなってしまった都電の操車場。どこからでも入れてね。瓦礫の山にのぼって、皆で月光仮面や少年ジェットの真似をするんですよ、風呂敷をマントにしてね(笑)。
--渋谷駅周辺はどうでしたか。
少し大きくなると新宿にも行くようになって、それとの比較から「渋谷にはまだ開発されていない良い雰囲気が残っているなぁ」と思っていました。新宿は当時から道がだだっ広くて交通量もすごかったんですよ。渋谷は駅から周りを見渡すと、丘があって、そこに民家が見え、普通に人が暮らしているんですね。一方では、駅のすぐそばに映画館やプラネタリウムがあるなど、都市文化の香りがありました。新宿はしばらくいるだけで疲れてしまうけど、渋谷では身の丈に合わせた楽しみ方ができるような、そんな印象ですね。
--いつ頃から、渋谷の街は変わり始めたのでしょうか。
今から思えば、東京オリンピックが大きなターニングポイントでしたね。オリンピックに備えて青山通りが拡張され、六本木通りができて、渋谷駅周辺の交通量も一挙に増えた。それから1960年代の後半くらいまでかな、今の代々木公園のあたりに米軍の高級将校のためのワシントンハイツという住宅群があったでしょ。それがなくなって、公園になり、NHKも移転してきた。それで原宿駅周辺の雰囲気がガラッと変わったのはもちろん、NHKと渋谷駅を結ぶ公園通りが急に脚光を浴びるようになった。沿道に西武系の大型店が入ってきた頃から、渋谷の中心市街が急に拡大し始めたとの印象を持ちました。
--国土交通省(以下、国交省)時代は、どのような仕事をされていたのでしょうか。
1994年に青山学院大学に移籍する前は、国交省で全国各地の空港、港湾や周辺の都市整備などに携わっていました。例えば、横浜みなとみらい21なども手がけたのですが、その過程では当然、地域と一緒になって、どのように街を変えるかについて真剣に話し合いました。地域の方々にとっては自分たちが一生暮らす街ですし、子や孫に良いものを伝えたいと考えているから、必死です。まちづくりは、最終的には、そういうエネルギーの勝負になるんですね。私にとっても非常にやりがいのある仕事でしたが、せっかく一生懸命に取り組んでも、一年半くらいでポストが変わってしまう。まぁ役人の宿命ですね。私の場合、(それぞれのポストを)離れがたい気持ちが強く、次のプロジェクトに移ってからも、「あれはどうなったのだろう」と絶えず気にしていました。本来、役人というのは公平無私を保ち、特定の地域や問題にこだわらず、スパッと気持ちを切り替えなければいけないから、その意味では私は完全に失格でしたね(笑)。
--それで国交省をお辞めになったのでしょうか。
全国で地域の方々がまちづくりに必死に取り組むのを見て、「自分はふるさとのために、一体何をしてきたのだろうか」「これから何かできるのではないか」と、時々考えるようになりました。さらに国交省に勤めていた頃から論文を書いて学会に発表したりしていたので、腰を据えて一つのことを研究するのもいいなぁ、とも考えていた矢先、青山学院大学で教員を募集していたんです。公募のテーマだった交通に関しては、もともと専門的に取り組んでいたことから、それを突き詰めて研究しようという自然な流れで応募しました。当時は確か35歳頃で、国交省の同僚からは「これから地位も上がり、仕事が面白くなるのに、どうして辞めるのか」と不思議がられましたよ。でもね、昇進によって権限が増え、部下も増えるので確かに楽になるかもしれないけれど、最前線に立つ機会は減るので、仕事の内容としては、そんなに面白くなるとは思えなかったですね。性格的に現場を歩いて回るのが好きなんですよ。
--今も盛んに街に出ていらっしゃるようですね。
研究者は、ラボラトリーで研究した成果を学会で発表するのが一般的ですが、それだけじゃ面白くない。だから学生を引き連れて街に出て、いろんな場所を調査したり、実際に街を作り変えたりしています。今でも、雨の日以外は毎日、自宅のほぼ半径1キロの範囲を「何か変わったことや課題・問題点はないか」と、自転車でウロウロ走り回っています。まぁパトロールみたいなものですね(笑)。実際、毎日見ていないと、変化には気付きません。キレイだった路地に急にゴミが増え出したなと思ったら、掃除をしていた町会長が風邪で寝込んでいたりする。街の外観だけではなく、そこで暮らしている人々の行動や生活ぶりまで知って、初めて見えてくるものがある。来街者や働きに来ている方々には表面的なものしか見えませんが、たまたまここで生まれ育った自分にはそういう裏側の動きも分かる。そうでなければ、街のため、人のために、次に何をすべきかは見えてきませんよね。