「トイカメラ」を日本に広める立役者となった大森秀樹さん。現在は、トイカメラのショッピングサイトを運営する「スーパーヘッズ」、さらに写真集を中心とした出版レーベル「パワーショベルブックス」の経営など、トイカメラを軸に幅広く活動しています。大学時代には道玄坂の音楽喫茶に入り浸り、事務所を構えるときには「渋谷以外は眼中になかった」と語る大森さんが、そこまで渋谷に執着する理由とは?
--渋谷との出会いを教えてください。
大学入学と同時に、徳島県から上京して目黒に移り住みました。それで渋谷の音楽喫茶に通うようになったんです。25年くらい前でしょうかね。ちょうどレゲエが流行り出していた頃で、ストーンズとパンクとレゲエが一緒に流れていましたよ。とくに、道玄坂のブラックホールやBYGには、よく行きました。300円のコーヒーで、一日中、粘っても何も言われなかったからね。新宿の方が音楽喫茶は多かったけど、渋谷の店の方が18歳くらいの若者にも敷居が低くて入りやすかったですね。
--そのほかに学生時代の思い出の場所はありますか。
その頃、写真家の森山大道さんが宮益坂にある古いビルの一室を、住居兼個人ギャラリーにしていたんですね。「ルーム801」という名前でした。写真を見るのは好きだったから、しょっちゅう足を運んでいました。いちおう開館時間は決まっているのだけど、森山さんが出かけていると鍵が閉まっていたりしてね。森山さんは渋谷の街もたくさん撮影していて、当時の写真に写っている店や看板、マンホールなんかには今も残っているものが少なくない。そう考えると、渋谷は、変わったようで、あまり変わっていないのかもしれない。僕も若かったから、じっくりと街並みを眺めたりはしなかったけど、宮益坂や桜丘、百軒店のあたりは当時から好きでした。とくに桜丘には『ロッキング・オン』の事務所があったから、音楽好きの僕らにとっては聖地でしたね。初めて桜丘を歩いたときには、それは感動しました。
--大学卒業後は、どんな道を辿ったのでしょうか。
大学を出てからは、しばらくブラブラしていました。出たというか、首になったんですけどね(笑)。映画も好きだったから、学生時代に新宿の映画館でバイトをしていて、その縁で東京国際映画祭を開催するから手伝わないかと声がかかったんです。それで雑用でしたけど、第1回と第2回の映画祭に関わりました。そのときに映画祭の事務所が渋谷のビルの2階に入っていて、その1階が空いていたからタダで貸してもらって、他のイベント関連の仕事をしたりもしていました。その頃から35歳くらいまでは、今で言うフリーターみたいな身分でしたね(笑)。
--しばらく徳島に帰った時期もあったんですよね。
33歳くらいから2年ほどね。ちょっとした事情があったのと、東京に飽きたという気持ちがあって。でも、ホントに山ばかりの田舎だから、すぐに退屈してしまうんですよ。時間ばかりが余ってしまって。元々、音楽を聴いたり写真を見たりするのは好きだったから、「ビジュアル&ビート」というコンセプトで、「アンダーグラウンドなアマゾン」みたいなことをやってみようと考えていました。それでパソコンをいじったりしているうちに、あるとき、CDとか楽器とか写真集なんかを扱うショッピングサイトをやったら面白いんじゃないかと思ったんです。当時はまだ、windows3.1で「ピーッ」ってやっていた時代だったのでパソコンも当然本格的なショッピングサイトもなく、もちろんショッピングカートのプログラムも日本にはありませんでした。それでアメリカのプログラムを使うことにしたのですが、カスタマイズは自分でやらなくてはいけない。でも、プログラムの知識はゼロでしたから、一年くらいかけて、文字通り、一行ずつ直していきました。時間はたっぷりありましたので(笑)。
--そのサイトで「トイカメラ」も売り出したのでしょうか。
そうなんです。最初、渋谷の古本屋で「Lomo」に付いている写真集を見つけたんですが、持って返ってみると何だかわからなかったのですが、カメラの写真が載っていてFAXの番号が書いてありました。それでとりあえずFAXをしてみたら何かが返ってきて、つまりはカメラの販売だった訳で「じゃ、買うよ」と返答しました。それでカメラが届いたのですが、最初はパソコンの横に置いて、かなり長い間放ったらかしにしていたんですね。でも、ショッピングサイトで写真も扱っているし、こういうカメラを売るのも面白いなと思って。当時は、パソコンのユーザーが少なく、ショッピングサイトも市民権を得ていませんでしたが、「Lomo」を面白がってくれる人は多かった。実は、僕はカメラが好きだったことは1回もないんですね。好きじゃないからできるんだとも思います。ただ、「Lomo」は新しい手法として面白かった。(Lomoのある)ウィーンの人たちがやろうとしていたことは面白かったですね。ちょっとした友だちを各国の「大使」に任命したりとか、自分たちがいいと思うことは、必ず世界にも同じように思う人がいるはず──と、インターネットを駆使して確信的にやっていた点が、当時の自分にとっては手法として新鮮に見えた。今振り返ると、アナログのカメラを押し出したのが、インターネットの人たちだったところが面白いですね。「トイカメラ」という言葉は96年ごろから使っているんですけど、定着したなぁと感じたのは、家電量販店で「トイカメラ」の売り場ができていたのを目にした時ですね(笑)。
一般的にはロシアの光学機器メーカー「Lomo社」によって開発されたコンパクトカメラを総称して「Lomo」と呼ぶケースが多い。ぼやけた焦点やコントラストの強い色調などが特徴的なため、熱狂的なファンを生み、日本を含めた40ヶ国以上で愛好者団体が存在している。「HOLGA」は「Lomo」と並んで人気のある中国製のトイカメラ。
--それをきっかけにトイカメラの世界に入っていったのでしょうか。
ええ、本格的なビジネスとしてLomoに関わりたいと思い、35歳のときに再び上京しました。一度六本木に拠点を構えましたが、すぐに渋谷に移ったんですよ。そのとき物件の候補は二つあったのですが、神泉の近くの国道246号沿いにボロいビルがあったんですね。渋谷駅から歩くと排気ガスがひどくて、気持ち悪くなったのを覚えています。しかも、窓を開けると目の前に高速道路が走っていて、部屋の中が真っ黒になってしまう。ただ、そうした環境が徳島の田舎とはとても対照的で、「なんか東京っぽいな」と思って、そこに決めました(笑)。僕にとって渋谷に事務所を構えるなんて大出世でしたから(笑)。とにかく嬉しかったですね。
--トイカメラの面白さは、どのあたりにあるのでしょうか。
誰でも扱えることが一番の魅力でしょうね。ちょうどいい重さだし、目測ですぐにシャッターを切れるし、アナログだから写真がきれいにボケる。アナログレコードが、ノイズがあるから味があるのと似ていますね。僕がトイカメラという言葉をアメリカから持って来たのは1996年頃でした。当時はHIROMIXに代表されるように、写真を撮る人の感性は変わっているのに、一眼レフの高性能カメラか、あとはコンパクトカメラしかなかった。そんななかでトイカメラは、別にプロを目指すわけではないけど、自分が気に入るような写真を撮ってみたいという若い女性の心を捉えたのだと思います。
--公園通りのショップ「カメラキャバレー」では、「カメラマニアお断り」と謳っていますが。
写真が大事であって、カメラ自体は何でもいいというのが僕のスタンスなんですよ。森山大道さんも「写真機は何だっていい」と同じことを言っている。だから、マニアが飛びつきそうなカメラは、あえて他店よりも値段を高くしている(笑)。それから、最近、ハウツー本が出るほどトイカメラはメジャーになってしまったことを少し残念に思っています。「おしゃれな若者は音楽が好き」という固定観念のようなものがありますが、同じように「おしゃれな若者はトイカメラを持っている」とは、なって欲しくない。ちょっと風変わりな子が持っているという程度がちょうどいいかなと思うんですよ。だから、ショップは公園通りにあるから人通りは多いのですが、わざと看板を目立たなくして、通りすがりの人が入って来られないようにしています(笑)。
--今後も渋谷を中心に活動されるご予定ですか。
渋谷の雑踏って、他の街の雑踏とは異質だと思うんですよ。何というか、喧騒のなかでも静けさを感じることが多い。写真家で作家の藤原新也さんが「渋谷駅前の交差点に立つと、ノイズとノイズがぶつかって無音になっている気がする」といったことを書いていますが、それと同じような感覚ですね。まるで寂しくて静かな渋谷川の雰囲気が街全体に漂っている感じがする。だから、自分の殻に入ったままでいられる安心感があって、ブラブラと歩くのがすごく楽しい。それから、事務所の中にいても、つねに外の街とつながっている感覚を持つのも渋谷だけです。それがすごく心地良い。これまでに何度も事務所を移そうと思って、他の街で物件を見たけど、結局、僕にとって渋谷ほど居心地の良い街はなかった。そういう空気は、そう簡単には失われないと思うから、これからも渋谷を拠点にして活動することになりそうです。
■プロフィール
大森秀樹さん
1961年徳島県生まれ。大学を辞めてから様々な職業を点々とした後、1995年から「visual & beat」をコンセプトにしたウェブサイト「basscult」を構想。1998年〜2000年、ロシア製カメラLomoLC-Aの仕掛け人として「TokyoLomoHeads」を率いて活動、Holgaなど、いわゆる「トイカメラ」というジャンルを世に知らしめる。2000年、株式会社パワーショベルを設立。以後、様々なトイカメラを企画・制作するかたわら、2002年から写真、音楽、動画、編集、デザインなどを手がける「SuperHeadz INaBabylon」を結成。2005年、音楽レーベル「PowerShovelAudio」、出版レーベル「Power Shovel Books」をスタートさせた。