かつては料亭がひしめき合い、多くの芸者が闊歩した渋谷・円山町。街の光景は様変わりしましたが、今も二人の現役の芸者が伝統文化の灯を守り続けています。その一人である喜利家鈴子さんに、渋谷における芸者文化の変遷や今後の展望などを伺いました。
--鈴子さんが芸者になった経緯を教えてください。
私の母は8人兄弟で、叔母の一人が円山町で置屋をしていました。18歳の頃、実家の山口県下関から遊びに来た時、着物を着た叔母がお稽古をしているのを見て、初めて芸者という仕事の存在を知りました。その頃、ちょうど若い子が足りなかったこともあり、私も色々とお稽古事をしていましたからバイトみたいな形で駆り出されちゃって。若いだけでチヤホヤされて、遊びに来たつもりが居候になって、そのまま今に至ります(笑)。
30年前くらい前の円山町には30〜40軒ほどの料亭がひしめき合い、一番大きい店は500坪近くもありました。離れの部屋が石畳で繋がっていて、それぞれの部屋に異なる花が生けられた庭園があって、すごく格好良い料亭でしたよ。その頃には芸者も80人くらいはいて、街中には明るいうちから三味線の音が流れていました。路面には打ち水がしてあり、ゴミ一つ落ちていなくて、昼間から色気のある街でしたよね。
--そんな風情ある街並みが変わり始めたのは、いつ頃なのでしょうか。
バブルの頃ですね。とくに昭和55年〜60年頃でしょうか、地上げによって古い料亭が次々に地上げされちゃって…。それからバブルの頃にはとにかく人手が足りず、高い時給で人を見定めずに集めて、お稽古もしないうちにお客様の前に出すところが少なくありませんでした。それで失礼があったりしてお客様が離れてしまったのです。あとは、どの置屋でも姐さんはどんどん歳を取っていくのに、後継者を見つけられなかった。もちろん芸を磨くことは大切ですが、やはり若い子を見たいというお客様が多いですからね。出来上がった芸はもちろんですが、これからどのように育つのかを想像しながら見るほうがお客様には面白いんですよ。そういう若い子を育てられなかったことが、円山町が衰退した大きな原因です。私の見番(=芸者の事務所)でも、数少ない後輩がすぐに辞めてしまったりして、今では円山町全体で現役の芸者は私を含めて二人だけになりました。
--円山町だけでなく、渋谷の街全体も変わりましたよね。
そうですね、とくにセンター街は変わりましたね。あの辺りにも昔は良い雰囲気の和食屋がたくさんあったのですが…。今のような若者向けの店が増えると、センター街にはそういう店しか作れないというイメージが付いて、昔ながらの店も閉めてしまうんです。昔から渋谷には学生さんがたくさんいましたが、同時に大人が遊べる街でもありましたよね。それが今では大人が少なくなってしまって。セルリアンタワーができて大人の場所はできたと思いますが「点」ですからね。渋谷は大人が遊べなくなった。それが悔しい。昔は学生が遊んだ街で、大人になっても遊べたが今はそれがない。Bunkamuraにしても、回りで遊ぼうと思うと大人の場所がないって言うんですよ。もちろん若い人は大事だけど、シニアに向かう世代が安心して遊べる空気を作りたいですね。
私自身は、自分の住む街にお金を落とすことが信条ですので、買い物でも何でも渋谷から出ません。友達やお客さんと食事をするときも円山町に来てもらうので、「たまには外に出ろよ」なんて言われますが、「いいじゃないの、私の知っている店もあるし」とか何とか言って…。それでチェーン店ではなく、家族で経営しているような小さな店に行くの。やはり住んでいる人が街を守らないと…住んでいる人の品が街に反映されますよね。
--芸者は減ってしまいましたが、新しい試みを始めていらっしゃいますね。
芸者だけでなく、今では円山町には料亭もほとんどありません。昔の賑やかな光景を懐かしく思いますが、伝統文化を守りながらも今の時代に合ったスタイルを生み出さなきゃいけないと思っています。そもそも芸者遊びって、すごく高いというイメージがありますよね。二人客でも八畳一間を使ったり、お花を生けたり、仲居が世話したり、芸者そのものよりも、空間や器物の費用がかかるんですよ。だから現代的なスタイルとして、料亭ではなく和風サロンにお客様を集めて、芸者の芸や、拳(お座敷じゃんけん)、投扇興、さらに三味線や鼓、笛、小唄、長唄などの演奏や、撫子(=なでしこ・見習い芸者のこと)の接待などを、これまでに比べてリーズナブルに楽しんでもらう「音姫と太郎の会」という試みを始めました。いわば、飲食と接待の付いた和風のライブハウスみたいな感じですね。今日は三味線でも聴きに行こうかな、なんて、これまでちょっと距離感のあった芸事に気軽に訪れてもらう雰囲気を心がけています。
--新しい試みを通じて何を伝えたいと思っていますか。
渋谷には、イタリアンもフレンチもオリエンタルも、あらゆる趣向の店があるじゃないですか。とくに円山町はホテルもあればライブハウスもある「何でもあり」の空間です。その中で、和の空間は逆に新しいスタイルに映るのか、意外にもすんなりと受け入れてくれるんですよ。街中には中途半端な和風の店があふれていますが、私は本物の和を伝えたいですね。そういう新しいスタイルを通して、これまで芸者文化に無縁だった人にも芸者の芸を知ってもらいたい。特に30代など若い方に来てほしいですね。三味線も長唄もきちんと「プロ」のレベルをお聞かせするので、初めて来る方のほうが感動の度合いが大きいく面白いんですよ。世の中にこんなものがあったのか、なんて言ってくれて。やはり初めて触れるものは良いものでなくてはいけません。その点、私たちは、芸事はもちろん、着物の着こなしに至るまで伝統に基づいた本物志向でお迎えすることを心がけています。新橋や向島のように伝統を守り続ける場所もある一方で、守るべき伝統がなくなりつつある円山町で、こうした新しいことを思い切ってやってみる価値があると思いますね。
--後継者不足に関しては、どのようにお考えですか。
やはり人が人を呼び、賑やかなところに人は集まるものです。どういう世界でも同じだと思いますが、とくに若いエネルギーを持つ人が集まれば活性化されますよね。だから、若い子を育てることにも、かなり力を注いでいますよ。嬉しいことに、最近、テレビに取り上げられたこともあって、関心を持ってくれる若い子が増えています。先日、見習いになりたいと来てくれた子は、一緒にテレビを観ていた母親に「日本の文化について何も知らないのだから、行ってきなさい」と言われたそうですよ。今では、祖母も母親も着物を持っていないという家庭が珍しくなく、むしろ日本の文化が新鮮に映るんですよね。
--現在は、常時、見習いを募集しているのでしょうか。
はい、応募は学生さんが目立ちますね。着物を着たり、三味線をひいたり、日本の文化に触れたいと考えて訪れてくれる方が多いかな。すぐに辞めてしまう方もいますが、少しでも日本の文化を知ってもらえれば良いと考えているので気にしません。今、私のところには三人の撫子がいて、お稽古を進めているところです。最近の若い子はお稽古には非常に熱心で驚かされますが、欲がないことに物足りなさを感じることもあります。この仕事って、芸もお客様も自分で獲得しなければいけないんですよ。欲がなければ芸事はなかなか上達しません。そういう面ではのんびりした子が多いかもしれませんね。
また、私としては大学で邦楽を学んだ方に活躍の場を提供したいという思いもあります。芸を持ちながら、活躍の場が限られている方がいる一方、現代の暮らしの中で普通の方が生の邦楽に触れる機会は非常に少ない。これをいい形で結び付けていくきっかけとしても「音姫と太郎の会」は続けていきたいですね。
--渋谷にどのような空間ができれば大人が来やすくなると思いますか。
渋谷はバラバラなビル、雑居ビルが多すぎますね。ちょっといいお店があっても、エレベーターに乗ると、わーっと若い人が入ってきて、がっかりすることがありますね。なので、ある通りだけはいいお店を選んで、その通りだけはせめてそうした大人の空気を残してほしいですね。そうしたものがあると、銀ブラではないけれど、安心して落ち着けるのでは。ひとつ裏に入った通りに、人工的でもいいので、そうした空間を設けて、それこそBunkamuraのお客様を逃さないようにすればいいのでは。お金使いに来ているのに、お金使う場所がないんですもの。もっと、いいお店が出られるような雰囲気ができればいいですね。
--外国人を楽しませるという意味では、芸者文化は貴重ですよね。
そうですね、今でも喜んでくれる外国人は少なくありません。歌舞伎が一番ですが、お金も時間もかけずに日本の文化に触れられますしね。そういう役割を円山町で続けていきたいと思っています。たしかに苦しい状況ではありますが、地元の住人の中にも「オレたちもお金を落としたいんだけど、場所がないじゃないか」とこぼしながらも、応援してくださる方もいますし。新しい形の接待があってもいいと思うんですね。私の夢は、芸者が芸を披露したり、お客様との会話を楽しんだり、またお客様が小唄を歌ったりできる、ジャパニーズスタイルのライブハウスのような館を円山町に持つこと。そういう場所が一つくらいあっても、異色で面白いじゃないですか。スタイルは変わっても、決してお金では買うことのできない伝統文化を、ここ円山町で守り続けていきたいと思っています。
明治時代より神泉町に浴場と料理店を兼ねた「弘法湯」があったことから、隣接する円山町は花街として発展した。大正時代に入って三業地(料理屋・待合茶屋・芸妓屋の三種の営業を許可された場所)に指定されて隆盛し、最盛期の1921(大正10)年には料理屋36軒、待合茶屋96軒、芸妓置屋137軒、芸妓の数は400名を数えたという。 関東大震災後は道玄坂の「百軒店」を中心に再開発が進み、昭和に入ると歓楽街として体裁を整えたが、1945(昭和20)年の空襲で花街の大半が灰燼に帰した。その後、連合国軍の進駐に伴ってキャバレーやダンスホールが乱立したが、「オイルショック」などを経て料亭は次第に廃業し、ホテル街へと姿を変えた。若者カルチャーの先端を走るクラブやライブハウスが円山町に進出し、最近では大型シネマコンプレックス「Q-AXビル」が建設されるなど、渋谷でも異彩を放つ混沌としたエリアへと変貌を遂げる。(参考「新修 渋谷区史」) |
■プロフィール
喜利家鈴子さん
山口県下関市出身。18歳のとき、円山町で置屋を営む叔母の関係で芸者の存在を知り、そのまま円山町の花柳界へ。円山町から日本文化が消えることに危機感を感じ、和風サロンで和の文化を伝えるイベント「音姫と太郎の会」を開き、新規客の開拓を行う一方、三味線の小糸姐さんと共に芸者募集を行うなど、後進の育成にも精力的に取り組んでいる。
ご予約等はこちらから TEL&FAX:03-3496-5418
日本舞踊をはじめとした芸者の芸に加え、若手の女流邦楽家の演奏(長唄・三味線・笛)、お座敷遊びなどを、酒を交えながら楽しめるイベント。芸者や撫子の接待を受けながら気軽に日本の伝統文化に触れられる。次回の日程は以下の通り。 日時=8月31日(木) 19:30〜21:30 場所=寿寿木(渋谷区円山町17-1/03-3461-3478) 会費=一人1万5,000円(酒類・おつまみ3〜4品・軽食付き) |