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渋谷を中心に活躍する【キーパーソン】のロングインタビュー。彼らの言葉を通じて「渋谷の魅力」を発信します。

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鈴木勲さん
(ジャズベーシスト)

「ジャズってこんなもんだけど、どうだい?」 渋谷音楽祭のステージから街行く人に語りかけたい。

プロフィール

1933年東京生まれ。國學院大學久我山中学・高校卒業、立教大学中退。1956年に立川キャンプの軍楽隊のメンバーとともにジャズを演奏する。渡辺貞夫らとカルテットを結成するなどした後、1970年、アートブレイキーに見出されて渡米。帰国後は、オリジナルアルバム「BLOW UP」(TBM)、「陽光」(キング)で日本ジャズ賞を受賞した。スイスのインターネットラジオ、Radio Jazz Internationalから、世界のジャズミュージシャン20傑に選ばれ、「JAZZ GOD FATHER」の称号を受けている。

アメリカ屈指のジャズドラマー、アート・ブレイキーに見出されてニューヨークへ単身渡米し、ジャズメッセンジャーズの一員として活動したのは45年ほど前。日本を代表するジャズベーシストの鈴木勲さんは、82歳を迎えた今なお、ジャズシーンの第一線で活躍し続けています。渋谷音楽祭には2009年以降毎年出場し、名実ともに世界トップクラスの音を奏でてきました。鈴木さんがジャズとともに歩んだ半生を振り返るとともに、渋谷音楽祭への思いを語ります。

とにかくジャズをやりたくて、ストリップ劇場での奏者になった。

_最初に鈴木さんとジャズとの出会いを教えてください。

ジャズとの出会いはね、ルイ・アームストロングが初来日した時のことです。美容院をやっていたお袋がお客さんからチケットを貰い、「聴きにいくかい?」と譲られたんですよ。当時は大学生で楽器なんていじったこともなかったけど、まあ暇だったんで築地の東劇に行ってみたら、最前列の席でね。「これがジャズか」と聴き入っていると、ミルト・ヒントンというベース弾きが10分くらいのソロをやったんです。それに感動しちゃってね。俺も絶対にベースをやろう、と。で、その帰り道、東劇の5階にストリップ劇場があったんだけど、本当に偶然、「べース奏者募集」と書いてある貼り紙を目にしたんですよ。「こりゃいいや、ここで教えてもらおう」と思ってね(笑)。それでお袋に「ベースを買ってくれないか」と頼んだのですが、当時は楽器なんてどこにもない。ところが、お客さんの人脈が広かったお袋があちこちに電話して、なんとかウッドベースを探し出してくれたんです。そんな始まりですよ。それをきっかけに大学も中退しちゃいましたね(笑)。

_その後、どうやってベースの腕を磨いたのでしょうか。

コンサートから1週間くらいしてストリップ劇場に行ったら、まだ貼り紙があったから、「弾いたことはないけど、教えてくれませんかね」とお願いしたんです。すると、ピアノとドラムの奏者が「じゃあ坊や、ベースを持っておいでよ」と言ってくれて、そこで教わりながら演奏することになりました。なにしろストリップ劇場だからね、ストリッパーのドレスが白の時はこれ、赤の時はこれなんて指示されて、ダンスに合わせていろいろな曲を弾きました。最初は音楽の「お」の字も知らなかったけど、1年くらい習ったら、だいぶ弾けるようになってね。「坊や、だいぶ巧くなったな」なんて言われたりして。

_その後、ベース奏者として本格的に活躍されますよね。

ある時、その劇場によく来ていた進駐軍の2人の米兵から、「お前、なかなか良い音を出すな。今度キャンプに来ないか」と誘われてね。それで立川のキャンプに遊びに行ったら、彼らは軍楽隊のメンバーだったんですよ。キャンプ内のカマボコ兵舎にたくさん楽器が置いてあってね。毎朝、国旗掲揚の演奏をした後はやることがないから、そこでジャズをやっていたの。もともとみんなミュージシャンで、けっこう有名な人もいましたよ。俺に声をかけてくれたのはトニー・テキセイラというギター奏者で、帰国後はバークリー音楽大学で教えていたみたいですね。そんな経緯で立川キャンプに出入りするようになり、空軍のバンドのメンバーとして、2年くらい演奏しました。気のいい連中ばかりで楽しかったね。毎日ゲートで手続きするのが面倒くさいと言ったら、軍服を貸してくれて、それからは守衛がいても素通りでしたよ(笑)。そのキャンプには、渡辺(貞夫)さんとか秋吉(敏子)さんもよく聞きにきていたけど、俺のことは日系2世と思っていたみたい(笑)。

アート・ブレイキーとの出会いによって世界のレベルを知った。

_アメリカで屈指のジャズドラマーだったアート・ブレイキーとの出会いについて教えてください。

米兵はみんな軍役を終えて帰っちゃってバンドも解散になったから、その後は、有楽町のビデオホールとか、あちこちで演奏するようになりました。で、いろんなところでジャムセッションをする中で、渡辺貞夫、富樫雅彦、菊地雅章とカルテットを組むことになってね。これは、いいバンドでしたよ。それぞれリーダー格だから、「お前のリズムは違う!」とか、衝突ばっかりだったけど。渡辺さんは「もういい加減にしなよ」なんて、いつもみんなをなだめていましたね。ジャズ奏者としての大きな転機は、アート・ブレイキーとの出会い。ジャズ司会者の磯野テルオさんが自由が丘にファイブ・スポットというライブハウスを持っていて、そこで俺もよく演奏していました。磯野さんは来日した海外のミュージシャンを自分の店によく連れてきてご飯を食べさせたりしていましたが、その中にブレイキーがいてね。彼の前で演奏したら気に入ってもらって、「お前、ニューヨークに来ないか」と誘われたんですよ。それで36歳のときに、渡米してブレイキーのバンドで全米を周って演奏するようになったんです。

_アメリカではどのような体験をされたのでしょうか。

左)鈴木勲さん、中央)エルビン・ジョーンズ(Dr)、右)デューク・ピアソン(P)
1969年、ニューヨークで音楽活動をしていたときの貴重な1枚。

とにかく周りは超一流だらけでしたよ。オスカー・ピーターソンとか、ウィントン・ケリーとか、ジム・ホールとか、ポール・デスモンドとか、いろんなミュージシャンと演奏して、すごく勉強になりました。ブレイキーが「巧いやつがいる」と言ってくれて、みんなが俺と一緒にやりたがってくれたんだよね。彼らは技術だけじゃないんです。それぞれが自分のスタイルを持っている。どれだけ巧くても、誰かと似ていることをやっているだけでは相手にされない。個性がないとね。もちろん、ただ変わっているだけでも駄目で、内容も良くないといけない。日本とのレベルの差をつくづく思い知らされましたね。ブレイキーのグループでは2年くらいかな、本当はもっとやりたかったけど、カナダのトロントを回っていたときに、ブレイキーがトラブルを起こしちゃって……。時間がかかりそうだから、そこで帰国することにしました。その後はあちこちで演奏していたら、スリー・ブラインド・マイスというジャズレーベルからレコードを出さないかと誘われ、それで1973年に「BLOW UP」というアルバムを出したんです。これが結構なヒットになって、10万枚くらい売れたんだよね。

_その後も、日本を代表するジャズベースシストして活躍されていますが、どのような思いで弾き続けているのでしょうか。

良い演奏をしたい、お客さんを感動したいという気持ちしかないですよ。これまでもジャズで稼ごうという思いを持ったことはないですね。やっぱり、自分で涙が出るくらいの気持ちになれる演奏をしないと。ただ、ポンポンと弾くだけでは駄目。自分が泣けるくらいだと、お客さんも泣いてくれるんですよ。ずっとそんな気持ちで研究をしてきて、自分の中でのハードルはどんどん上がっていくけど、まだまだ辿りつけない。技術も大切だから、今でも毎日4時間くらいは練習しているんですけどね。

_今の日本のジャズシーンは、どのようにご覧になっていますか。

若いジャズミュージシャンにはもっともっと頑張ってもらいたいね。厳しいことを言うと、最初から有名になりたいという思いが強過ぎるんじゃないかな。「世界中のどこを探してもいない」と言えるような個性があって、内容も良いというプレイヤーがまだまだ少ない。そういう演奏ができれば、自然と名前も売れるんだから。名実ともに世界で通用するミューシャンが出てきてほしいから、昔からあちこちで若い連中と一緒にやって教えてきたんです。俺みたいなリズムを出せるミュージシャンは、他にはいないという自負があるからね。例えば、最近はクラブで若いDJと一緒に演奏することもあるんだけど、ただ機械で音を流すだけじゃなくて、「こんな風に音を入れると面白いよ」ということを伝えたいという思いでやっていますね。

いつもファショナルブルないでたちの鈴木さん。GU(ジーユー)などで買い物することが多いのだそうです。

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