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海野緑さん
(東急文化村舞台芸術事業部担当部長)

ブロードウェイと共通点が多い渋谷の街で
もっと気軽にミュージカルを楽しんでほしい

プロフィール

岩手県出身。大学卒業後、テレビ朝日に入社し、スポーツ記者を経て、イベント事業部で海外ミュージカルの招聘に15年ほど携わる。その後、東急文化村に入社し、シアターオーブ事業部担当部長(当時)に就任。現在は、2014年7月公演のブロードウェイミュージカル「ブリング・イット・オン」の公演に向け、多忙な日々を送る。

渋谷ヒカリエの中にあるミュージカル専用劇場「東急シアターオーブ」。総客席数1972席、国内屈指の高機能設備を誇る劇場で、2012年のオープン以来、渋谷の街の中心からミュージカル文化を発信しています。この劇場のプロデューサーを務める海野緑さんは、長年、海外ミュージカルの招聘に携わってきた人物。東急シアターオーブでは、渋谷という街の性格に合わせた作品を上演したいと語ります。海野さんのミュージカルとの出合いや東急シアターオーブにかける思いをうかがいました。

生身の人間の息遣いを感じられるのがミュージカルの醍醐味

_海野さんとミュージカルとの出合いについてお話ください。

私は岩手県出身ですが、子どもの頃、年1回くらい、劇団四季のミュージカルが地方巡業で岩手県民会館にやって来ました。7歳のときに母に連れられて、「ジーザス・クライスト=スーパースター」という作品を観たのがミュージカルとの出合いです。この作品は全編ロック音楽が鳴り響くミュージカルで、座席がスピーカーのすぐ近くだったこともあり、とってもうるさかったという思い出があります。でも、その頃、モダンバレエを習っていたこともあり、不思議と「また観たい」という気持ちになりました。それで翌年以降も母に連れて行ってもらうようになって、どんどん魅力に引き込まれたという感じです。高校時代までは年1、2本のお付き合いでしたが、大学進学で上京してからは、帝国劇場も日生劇場も、またオーチャードホールも近くなりましたから、まさに観放題の状況。地方にはない海外招聘のミュージカルに触れて、さらにのめり込み、アルバイトでお金を貯めてはミュージカルに通うという学生生活を送りましたね。

_ミュージカルのどこに魅力を感じたのでしょうか。

私、映画やコンサートはあまり好きではないんですよ。映画は素晴らしいエンターテインメントですが、ライブではない。コンサートはライブですが、ストーリーがない。ライブとストーリーを両立する芸術が、ミュージカルなんです。ステージ上の生身の人間の息遣いを感じながら、素晴らしい歌や踊りを体感すると、まさに鳥肌が立つような感動を覚えます。そこが映画やコンサートにはない、ミュージカルの醍醐味だと思いますね。ただ、ハリウッドの大ヒット作に加え、生前のマイケル・ジャクソンやマドンナ、ポール・マッカートニー、レディ・ガガなどのコンサートは、必ず観ますね。この人たちが、なぜ一夜にして数万のオーディエンスを集めるのかを体感してみたいと思うから。

_いつ頃から、ミュージカルを仕事にしたいと思っていたのでしょうか。

具体的に考えるようになったのは、高校生の頃ですね。当時、岩手にやって来る市村正親さんや鹿賀丈史さん、雪村いづみさんなどを観て、一瞬、舞台の上で踊ってみたいとダンサーに憧れるようになりました。舞台を夢見る地方の女子は、皆たいてい同じ思考回路だと思いますが……(笑)。それが高校時代、たまたま、岩手県民会館のスタッフに知り合いを通じて劇場の中を見せてもらい、裏方さんの仕事があることを知りました。それから徐々に、役者さんと技術スタッフのほかにも、企画や制作などの仕事があることを知り、大学時代には制作側に携わりたいと思うようになりました。

初めて招聘したのは、ブロードウェイ・ミュージカル「Swing!」

_大学卒業後、テレビ朝日に入社したのは、どのような思いからでしょうか。

ミュージカルのチラシを見ると、主催者として大企業が名を連ねる中に必ずと言っていいほどテレビ局が入っています。そこで就職活動では制作会社のほかに、テレビ局を含めました。中でもテレビ朝日は、1980年代前半から海外のミュージカルを招聘してきたその道の第一人者がいたこともあって応募しました。今思えば不遜なのですが、面接では「テレビは見ません。ミュージカルをやりたいと思っています」とはっきりと言ったのが良かったのか、なぜか採用してくれました(笑)。ただ、すぐにはミュージカルには携われず、入社後はスポーツ記者としてアマチュアスポーツを担当しました。ようやく希望が通ってイベント事業部に異動になったのは、入社から9年ほど経った頃。イチから下働きをして、初めて海外から招聘したのが、2002年に上演されたブロードウェイ・ミュージカル「Swing!」でした。これは興行的には社長賞もいただくほどの大ヒットとなったのですが、その興行場所が東急文化村のオーチャードホールだったんです。その頃の東急文化村はクラシックからミュージカルへ門戸を開いたばかりで、私たちにとってもチャレンジの場でした。こうして幸先の良いスタートを切ったのですが、当時ニューヨークに赴任していた私の上司から、「英語力が足りない。あと、もっとアメリカ人の手の内を知らないと」と厳しく言われまして。その後1年間休職し、ブロードウェイの制作会社で勉強するきっかけを与えてくれました。この上司は既にお亡くなりになっていますが、今でも日本で一番の交渉人だったと思っています。とてもたくさんのことを教えていただき、今の私を形作ってくれた方です。

_海外からミュージカルを招聘する際は、何が大変なのでしょうか。

最初に交渉のテーブルに付いてから、実際に上演されるまで、だいたい2年くらいかかります。今の日本は流行の移り変わりがとても速く、昨年のトレンドが今年には廃れることが珍しくありませんから、作品選びは本当に難しいです。それから、まだ誰も見たことがない作品の魅力を、誰にどう伝えるかという、宣伝の方法にもいつも頭を悩ませていますね。20年前と違って今はミュージカルを招聘する会社が増え、競争が激しくなっています。ブロードウェイで観て「いいな」と思っても、大抵、別の会社から声がかかってしまっている。最近は、地方都市でトライアルをして調整している段階でも既に遅いことがあります。それではどうしているかというと、台本と楽譜が揃ったタイミングで演劇業界の限られた人に声をかけ、ダミーの役者でプレゼンをする場があります。そこに呼んでもらい、日本に合うかどうかを判断し、その場で交渉に入るかどうかを決めるんです。この機を逃すと、手遅れになってしまいます。

_ミュージカルはビジネスとしては大きいのでしょうか。

アメリカでのミュージカルの競争は非常に激しく、ブロードウェイにのし上がれる作品は、1年に8本から10本程度に過ぎません。そのうち半分は1年後には消えてしまいます。そのようにして勝ち残ったごく少数の作品だけが、海外公演にこぎつけます。ですが、そのようにヒットして定番となった段階で、既に他の会社が招聘の交渉をしていないことはまずありえませんから、かなり早い時期に青田買いをする必要があるわけです。作品によって規模が違いますが50〜70人程度のキャストを招聘すると、それこそ億単位の予算が必要ですからプレッシャーは本当に大きいです。舞台興業の場合の利益率は概ね10%程度、他の業種と違い利益幅が大きくありませんからチケットの売れ行きにはいつも心配が尽きません。

_日本とアメリカでは、ミュージカル文化には大きな差がありそうですね。

そうですね。アメリカでは、ミュージカルは半ば国技みたいなもので、ビジネスモデルとして確立されています。プロデューサーはブロードウェイでヒットさせて知名度を高め、その作品を引っさげて全米で興行してビッグになることを目指しています。私が子どもの頃、年1回、地方巡業を楽しんでいたという話をしましたが、アメリカの地方ではたいてい年5本ほどミュージカルの興行があります。劇場は年度初めに年間プログラムを発表し、5本セットの割安チケットを販売するんです。そういう仕組みが全米にでき上がっていて、ミュージカルファンが津々浦々に存在します。アメリカ人にとって10ドルで映画を観るのは週1回の楽しみで、ミュージカルはそのワンランク上といった位置づけ。生のステージを楽しむミュージカルは、映画とはまた違う、ちょっと贅沢なエンターテインメントとして受け容れられているんです。

_日本のミュージカルのファンはどのような状況なのでしょうか。

まず、海外から招聘されたミュージカルは必ず観るというコアなファンが一定数存在します。その周りを、「今回は面白そうだから観てみよう」といったライトなファンの層が囲んでいるという、ドーナッツ状のイメージです。いかにドーナッツの層を大きくしていくかは、宣伝の仕方にかかっています。

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